三池闘争と私(9)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄

労働者を信じきることがカギ


 日本は、かつて私たちが経験したことがない大変な時代となりました。
完全失業者が、七カ月間も三百万人を超え、いまや、もっとよい職場を求めて辞める人より、リストラや倒産で首を切られる人が多い時代になってきました。
 一方、解雇の不安、賃下げ、労働強化、過労死、権利はく奪など、労働者全体への風当たりの強い時代となりました。まさに、「去るも地獄、残るも地獄」の時代です。
 その上、私たちがかつて想像できなかった銀行や証券会社や老舗(しにせ)の大企業が次々と倒産するかたわら、政治の反動化や戦争準備など、二十一世紀は歴史を左右する激動の時代を予感させます。
 さて、この時代が私たちにとって避けて通れないものである以上、労働者や労働組合はどうあるべきかを否応なく問われてくると思うのです。だからこそ、「三池闘争」はあなたの産業や職場がなくなるとき、「あなたはどうしますか?」「仲間たちはどうするだろうか?」と問うているのだと思います。
 「労働者をどうみるのか?が決定的なカギをもつ」が、三池闘争の教訓の第一です。

労働者はすばらしい闘いのエネルギーをもっている

 「なぜ三池労組は、あんな大闘争を闘えたんだろう?」とか「今ではあんな闘争はとてもやれない」など、よくいわれてきました。労働組合が右傾化し、労働者も闘いに無関心であるようにみえるこんにち、「それでも労働者は、労働者である限り、すばらしい闘いのエネルギーをもっているんだ!」ということを本当に信じきれるかどうかは、決定的なことのように思えてなりません。
 どこの労働者も、なかなか思うようには立ち上がれません。組合が指示をし指令を出しても、容易には動こうとしません。一片の文書で労働者が簡単に動いたり、立ち上がったりしないのも、考えてみれば当たり前のことだと思うのです。
 なぜなら、労働者は一人になったら本当に弱いものだと、誰よりも当の本人が一番よく知っているのです。自分の細腕一本で生活をかかえ、めしを食い、家族を養っているのです。
 団結の強さを信じられない労働者は、誰も援助してくれないと思いこんでいますし、処分されたり、まして首になれば、怖いのが当然です。それが普通の労働者だと思うんです。だからこそ労働者は本音では組合をつくり、闘い、団結した組織の力のすばらしさを求めるのではないでしょうか?
 問題は、一人ひとりの弱さをもった労働者を、どう団結させ、その力で、どう弱さを克服させるのかが大事であって、闘わなければ何一つ解決しないのです。
 あの大闘争を闘った三池の第一組合員も、決して例外ではありませんでしたし、結成のときから戦闘的であったかというと、そんなことはありませんでした。三池でこれだけの大闘争を組みましたが、これは一朝一夕にできたわけではないのです。
 敗戦直後にはスト一つ打てない組合が、前にも述べた百十三日の闘争、四十三日間のロックアウトに対する闘いなど、一カ月以上の闘いをそれこそ何回もやって少しずつ欠陥を改め、学習をし、成果を基礎にして鍛えられてきたわけです。十五年もかかって、やっと六〇年の一歩も引かない大闘争をやる労働者が育ったんです。このことは非常に大事なことのように思います。
 問題なのは、どこのどんな労働者であれ、みんな弱さをもつと同時に、反面、すばらしい闘いのエネルギーをもっている労働者を、どう指導し、たくましくするかの指導の問題だと思います。労働者の強さも弱さも、絶対ではなく、二面同居の、いうなれば相対的なものです。強そうにみえても絶対でなく、弱い労働者も、それらに比べ、いま弱いだけのことです。
 私たちの運動は、こうした実際から出発する以外に発展はありません。ダメだといっても強くなるわけでなく、隠された強さを引き出しうるかどうかにかかってくるのではないでしょうか? そうすることで、労働者は組合を信じ、闘いが労働者の思想を変えるし、闘って結果は同じでも経験を積むわけだし、学習せざるをえなくなり、またたくましくなるのでしょう。このことを私たちの認識の基本にすえたいものです。

労働者を信頼してかかることが基本

 三池闘争ではどんな逆境の中でも、例えば仲間の血が流されようと、弾圧を受けようとも、断固としてやっぱり立ち上がって闘いました。何百人が投獄されるという事実を前にしても、一歩も引かずに闘ってきました。つまり、労働者は分裂したり、裏切りがあっても闘えるものだという確信を、はっきりこの三池闘争は示しています。この闘争の評価については、いろいろ議論することはあったとしても、事実は失うものの何もない労働者であるだけに強さがあるし、闘えるものだということを身をもって理解できたということを、ぜひわかってほしいと思います。
 現に活動家といわれた労働者でも、時には孤立感におそわれたり、日和見をおこしたりしてきたし、片方では、一見グータラにみえる労働者が、テコでも動かず闘い始めることは、たくさんあるものです。組合にしても同じことがいえます。闘う人も反動の人もいるし、多くの仲間は、どうでもよい人たちにみえます。だからこそ、資本の側は反動の人を通じて、また組合側は闘う人びとを中心として、この一見どうでもよいと思われる多くの仲間を奪い合う、結局、広範な労働者をどっちが獲得するかにすべての勝負がかかっている。これが率直なところ運動の基本だと思うし、それは闘争です。
 その意味で、指導は、地道で、しかも系統的でなければならないと思うのです。指導は、決して引き回しでなく、一人ひとりの労働者の、それこそ闘うエネルギーをどう引き出しうるかが問われているわけです。この長い、たゆまざる闘いと努力が、三池の大闘争を支えたのだということが大事なことでしょう。
 要は、くどいようでも、労働者はすべて闘うエネルギーもっているものだ、ということを一点の疑いもなく信頼できるかどうかであり、闘いが労働者を、ものの見事に鍛えあげていくものだ、ということが理解できるか否かにかかっている、とさえいえます。
 とくに私は良心的な指導者や活動家のなかにも、組合運動や日本の労働運動のなかで、この原則的な考え方、労働者観で弱さがあると思いますし、そのことは重要だと思います。
 そしてこのことがハッキリ基本に座っていないと、いろんなことを理屈でいっても、実際は労働者のいうことよりも、資本のことを信用したり、もっと極端にいえば、労働者に対する蔑視が出てくるのです。
 これでは、闘う組合づくり以前の問題です。これから労働者にとって厳しい情勢であるだけに、なおのこと、活動家のみなさんが、どういう労働者観を持つのか、といううことと労働者の戦闘性を文句なしに信頼できるかがカギとなるでしょう。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
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「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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