三池闘争と私(5)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄


日本をゆるがす闘いに突入

 いよいよこれから、六〇年の三池闘争で私たちがどう闘ってきたかを話します。とはいっても、あれから四十年近くもたっていますので、「三池闘争」の言葉すら知らない人もいると思います。あの大闘争がどんな闘いだったか口で話すのはとても難しい。ですからお願いがあるのですが、『三池闘争』という記録映画のビデオをぜひ見てほしいと思います。当時同じ地域分会の仲間が職場や地域での闘いを八ミリで克明に記録していたものを、二十年ほど前にみんなの協力で『三池闘争』という映画にしました。その映画が最近、ビデオになりました。これを見れば、三池闘争がどんな闘いだったかがわかるし、全く知らない人でも「ああ、労働者ってすごいな」と感動されると思います。ぜひ見ていただきたいと思います。

指名解雇は組合つぶしだ

 三池闘争は一九六〇年の一年がかりの大闘争でしたが、実は前年から前哨戦が始まっていました。

 「石炭から石油へ」、政府のエネルギー政策転換の下、三井鉱山の栗木社長はのるかそるか生き残りをかけて五九年一月に第一次合理化案を出してきました。三井六山(北海道・砂川、芦別、美唄、九州・田川、山野、三池)で六千人の人員削減という内容です。六千人というのは、三井で働く炭鉱労働者の六人に一人が首を切られるということです。あわせて労働条件の大幅な切り下げが提案されました。これに対し組合側はストを打ちながら交渉をして、四月六日に協定を結びました(四六協定)。

 いろいろな妥協はありましたが、この協定では、栗木社長に「六千人の希望退職の提案でそれに達しなかったが、あとは経営者の責任でやる。合理化はもう出さない。指名解雇などは一切いたしません」と約束させました。前回話した「到達闘争」でも「経営方針の第一義として、首切りはいたしません」と約束しており、これで二回の約束をしたわけです。

 ところがその舌の根も乾かぬ翌月頃から、会社側は攻撃に移ってきました。賃金の遅配、欠配、カットが続きました。ひどいときはその月に働いた賃金の四〇%もカットして六〇%しか払わず、それも月二回に分けて支払う。これでは生活の計画も全くたたないわけです。だから寄るとさわると「賃金はどげんなってるかね、あんたのところどげんして生活してる」という会話になる。それで抗議行動をすれば会社は弾圧し、九人の逮捕者も出ました。

 会社の攻撃は、それにとどまりませんでした。八月になって第二次合理化案を出してきました。三井六山で四千五百八十人、三池に対しては一番多い二千二百十人の首切りが提案されました。団体交渉の中で、会社側は終始強硬な態度をとり、狙いが三池労働組合つぶしにあることが次第に明らかになってきました。「五一作戦」といって、三井六山のうち労働組合がいちばん強い三池だけを孤立させようという作戦です。私たち三池労組は、「賃金遅欠配やカットなどの合理化は、次に大きな合理化をするための布石だから絶対にまかりならん、三池は闘う」と主張しました。けれども他の五山の労組は、「本格的な首切りを出させないためにも、今会社が厳しいならばこれらの条件は認めた方がいい」という意見でした。五山と三池とで対立的な意見を出させて、三池をつぶそうとするわけです。

 いよいよ十二月になって、本格的な指名解雇が出されるわけですが、その前の十一月に、炭労はどう対応するか方針を決めていました。一つに、会社が石炭をたくさん出してくれというなら増産体制に協力しよう。二つ目に、余剰人員があって困るとするならば、希望退職も認めよう。そこまでは妥協する。しかし最後に、会社がねらい打ちする指名解雇だけは、どんなことがあっても認めるわけにはいかない。私たちは労働組合として妥協できるぎりぎりまで妥協して、これだけはできないということで絞りこんだのが、指名解雇反対でした。

 なぜ指名解雇を認めるわけにはいかなかったかは、十二月に出された指名解雇の内容を見ればわかります。

 当時、三池労組の組合員は約一万五千人で、指名解雇されたのは千四百七十一人、約一割です。千四百七十一人のうち、地域や職場の分会長など、組合でなんらかの役職についた活動家が六百七十六人。社会党員など百五十一人の政党員も含まれていました。

 この人たちが戦前、戦後、ずっといじめられ搾取されて、人間として扱われなかった炭鉱労働者に、人間らしい条件をかち取ってきたのです。組合をつくり闘争をする中で、職場の労働条件を命がけで闘いとってきた、そういう得難い活動家の指名解雇を認めるということは、正常な組合の団結権と団体行動権の否定だし、労働組合を崩壊させることにつながります。どんなことがあってもゆずれない最後の一線だったのです。

 会社は「指名解雇の活動家は『生産阻害者』だから、彼らがいれば三井鉱山はつぶれる、だから絶対に引くわけにいかない」というわけで、団交も、中労委の斡旋案も拒否したのです。だからここまでくると、階級対立が丸だしです。

 資本の側の本音が、組合つぶしだったことが明らかになりました。

 正月前の交渉は決裂したので、会社がいつどんな攻撃にでるかと正月の気分は一切ありませんでした。相手がどんな手できても闘う以外にない。私たちは会社から送られてきた解雇状を全部集め、作ったハリボテや棺桶の中に入れて、「山の上クラブ」へもっていって燃やし抗議の大集会をやりました(写真)。

 年が明けて一月二十五日、会社側は石炭大手会社の支援体制や政府の協力も取り付け、ついにロックアウトを打ってきました。労働者を就労させないことで生活できなくさせるわけです。組合は無期限ストで対抗する以外にないと、ストに突入しました。こうして三百十三日にわたる三池闘争の火蓋が切って落とされました。

俺たちは生きるために立ち上がった

 私は当時三十一歳で、宮浦支部の執行委員を始めたばかりでした。「会社の意図するものは何か、合理化を認めたらどうなるか」と、毎晩のように地域分会や主婦会で学習したり、昼間は三交替の労働者を入坑前後に組合に集めて学習をする、そういう毎日でした。

 結婚して三年目でしたが、今言ったような毎日で、ほとんど家にも帰らずでしたので、はじめて生まれた娘に会ったのは、たしか一週間ほどしてからでした。

 指名解雇を認めるのは組合がなくなることで、組合がなくなればこれまで闘いとった人間らしい生活が会社の思うままの昔に戻ってしまう。こうして一歩も引けないところまできていたことを理解してもらいたいというのが私の率直な気持ちです。

 炭鉱労働者であれどういう労働者であれ、そこまで追い詰められて攻撃を仕掛けられたら、もう理屈じゃない。「それなら受けてたとう。人間らしく生きるためには立ち上がる以外に道はない」。これが日本を揺るがすことになる大闘争の突入時点で、私や多くの仲間たちの胸のうちを占めていた率直な気持ちでした。

ビデオ

三池闘争 日本をゆるがした日

   VHS モノクロ六十分

   製作 三池闘争映像記録会
   定価 5千円(送料込み)

   労働新聞社でも扱っています

    電 話〇三(三二九五)一〇一一
    FAX〇三(三二九五)一〇〇四


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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