三池闘争と私(2)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄


搾取の限りをつくした三井資本

 三池炭鉱は九七年に閉山されたし、知らない人がほとんどだと思います。ですから三池炭鉱とはどういう所だったのか、話したいと思います。三池炭鉱で六〇年になぜ日本を揺るがす闘争が起きたのかを理解していただく上でも、知ってもらいたいのです。

 三池炭鉱は福岡と熊本の両県にまたがり、一八八九年から閉山まで百八年間、三井が経営していました。

 三池は何といっても日本一の炭鉱でした。埋蔵量も炭質も、出炭量、そして従業員数などで日本最大の規模を誇ってきました。七三年の資料では、当時、一カ月で二万トン掘ればいい炭鉱だとされていましたが、三池では一日で約二万トンも出炭していました。日本で掘られる石炭の三分の一は三池炭鉱で出したぐらい、大規模な炭鉱でした。

 またぜひここで強調しておきたいのは、三井の労務政策がたいへんに過酷だったことです。労働者を低賃金で酷使し、搾取の限りを尽くした長い歴史があります。戦前は中国や朝鮮、奄美大島、与論島の人たちを強制労働でこき使いました。

 一九四五年の統計によると、戦時中に強制連行され全国の炭鉱で働かされた中国・朝鮮人労働者は、十三万二千九百四十六人いました。三池炭鉱には敗戦時点で二千二百九十七人の朝鮮人が在籍していたという資料があります。

 私が父から聞いた話では、一九四四年に三池炭鉱の中でベルトコンベアが燃え出して、全坑が火災となる恐れがあるような大事件がおきました。その時、採炭現場で四十八人の中国人労働者が救助を待っていましたが、救護隊が入坑したのは火災発生から二十時間近く経過した後でした。結局、彼らは抱き合うようにして死んでいました。遺体収容では、日本人は一人ずつ担架にのせてかつぎ上げられましたが、中国人は炭車に石炭同様投げ込まれて収容されたそうです。彼らと働いてた人の手記には、「中国人には服も着せず、キャップランプだけ。日本人が使い古した地下足袋の底を拾ってきて、足にひもでくくりつけただけの姿だった」とあります。

 また、六五年の全国高校野球で初出場・初優勝した三池工業高校は、戦前の囚人労働者の監獄の跡にできた三井の私立高校です。戦前、日本中から集められた懲役十年以上の重罪人は、鉄の鎖で足をつながれて、集治監(しゅうじかん、終身刑などの囚人を拘禁したところ)から炭鉱に出役しました。監獄はれんが塀で囲われ、囚人が地上に出ないで直接炭鉱に行けるよう地下道が掘られました。

 これら三井資本の罪悪の歴史の数々は記録にとどめるべきであり、六三年十一月には死者四百五十八人、CO(一酸化炭素)中毒患者八百三十九人を出した戦後最大の「炭塵爆発事故」が発生したように、戦後も引き続いたこの人殺し政策に対しては、「闘争なくして保安なし」とのスローガンが生まれました。

徹底した労働者管理

 三井の労務管理とも関わるので炭鉱労働者の生活について話します。

 炭鉱では炭鉱住宅(炭住)という社宅に労働者を入れて労働力を確保していました。労働者の八割ぐらいは炭住で生活していました。生活のすべてが炭住の中でまかなえる仕組みになっていて、必要な品物は会社が経営する売店で買う、子どもは三井の私立小学校に通う、病院も保育園もありました。つまり一般社会から隔離(かくり)されていたのです。それはなぜかというと、労働者を管理するのにはそれがいちばん安上がりだからです。非常の場合も動員できるし、監視もしやすい。

 炭住には世話方という会社の職員が配置されていました。世話方は炭鉱には出ずに社宅に勤務し、労働者の生活態度、家族の状況、すべてを熟知して会社に報告します。また、請願巡査という制度があって、会社の要請で警官が社宅に住んでいました。

 世話方制度は戦後も続いていましたので、よく覚えています。子どもの頃、兄弟げんかをしていると、おふくろたちは「早ようやめんか、世話方さんが来よらすぞ」と言ったものでした。世話方の報告ですべてが決まるので、恐い存在なのです。

 低賃金なので給料日前には生活できなくなります。そこで会社は売店で品物を買える「通い」という通帳を全坑員に持たせていました。代金は給料から天引きされました。「通い」には二種類あり、成績がいい坑員には「黒通い」、成績が悪い坑員は「赤通い」で差別されていました。

 勤務形態は、三交替と常一番(じょういちばん、昼間だけの八時間勤務)があり、三交替は一番方(いちばんかた)、二番方、三番方などと呼ばれていました。

 出勤して作業着に着替え、キャップランプを借り、繰込場(くりこみば、仕事の割当を指示する場)で配役をもらい、坑内に行く電車に乗ります。切羽(きりは、採炭現場)までは電車で一時間ほど。どんどん堀り進むので、毎日遠くなります。

 五三年に闘争で破棄するまで、「現場七時間協定」がありました。協定では現場で七時間労働とされ、坑内の移動時間は含まれません。そうすれば、移動時間が長くなっても会社は損をしない。しかし、労働者は切羽までの往復を含めれば九時間以上の労働です。

   *  *  *

 このようなひどい労務管理の下で、労働者の不満が爆発、ついに立ち上がりました。しかし最初は負けてしまいます。そういう、三池労組の結成から三池闘争前までの歩みを次に話したいと思います。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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