三池闘争と私(8)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄

闘いは三井、政府を震え上がらせた


 六〇年四月六日の藤林あっせん案を拒否して闘うことを決定した時から、また三池闘争は盛り上がっていった。
 多数のオルグが全国から集まり、逆オルグが三池から各地に派遣された。三池闘争の激化は、次第に安保反対の闘争を支え始めた。つまり、三池闘争が安保闘争を支えていたと同時に、安保闘争もまた三池闘争を支えた。五月十九日、岸内閣が国会に警官を導入して新安保条約を自民単独で強行可決したあとの安保闘争は、六月四日、五百六十万人がストに参加して闘ったように、空前の政治的ゼネストが打たれた。その時私たちは、三池闘争を励ます力をもっとも身近に感じたし、目に見えるようにもなった。社会党はじめ政党、民主団体、それに文化人など…続々と三池につめかけ闘争を励ました。
 パレードで近郊の市町村に宣伝にいくと、子ども連れの若いお母さんや、たんぼで働いている百姓の人たちも、みんな仕事をやめ、帽子をふったりタオルをふったりして、赤旗やプラカードをもつ労働者に反感どころか、「がんばって!」と激励されたのを覚えている。
 しかし、安保闘争が六月十九日、条約の自然成立によって、闘争の目標をなくしてからは、次第に三池闘争にそのエネルギーが結集されていくようになりました。
 「安保の火は消えても三池の火は消してはいけない」と、総評は七月十七日、ホッパー前で十万人の大集会をもったのです。「ホッパー」という言葉が連日のようにマスコミで報道され、全国的に「時のことば」として有名になったりしました。「ホッパー」とは石炭を選別して出荷までためておく貯炭槽と機械設備のことです。
 会社は三月半ばに組合を分裂させ、ただちに生産再開をめざして第二組合を構内にろう城させて石炭を掘らせたのです。そして四カ月、三池労組の抵抗の前にまだ一トンの石炭も商品化できず、窮地に追い込まれていました。
 会社はホッパーを組合の守りから取り戻すため、四月以来「立入禁止と業務妨害排除」の仮処分命令を申請し、裁判所や警察、つまり国家権力を最大限に利用して奪還に動きだしたのです。これは明らかに強行就労による生産体制が整い出したことを意味してもいたのです。
 組合側も一月の無期限スト突入以来、総評や炭労の中にいろいろな弱さや失敗を内包して闘ってきたものですから、時とともに、三池の戦術も次第にこのホッパーを死守することに重点が移っていきました。闘いがここまでくれば、もはや弱気や妥協は許されなくなっていましたし、事実上「ホッパー決戦」となったのです。
 総評は、ホッパー前の十万人大集会以来、毎日一万人の動員体制で対決に備えたのです。
 六百人を収容する「ビニール小屋」を二十四棟も建て、「ホッパー砦(とりで)」とも呼ばれましたが、ここを交替で守ったのです。
 この時、中央では安保の闘いで岸が退陣、自民党は後継総裁も決まらず、戦後最大の政治的危機を迎えていました。こうした情勢の中での三池現地での十万人の大集会や、ホッパー決戦の実力闘争の盛り上がりは三井資本はもとより、池田新内閣を震え上がらせるものとなったのです。
 新内閣はただちに、自衛隊を福岡に待機させながら、前面に一万人の警官を動員して「ホッパー奪取」を強行し始めたのです。
 「一万人の機動隊と二万人の組合員の激突」が刻々と迫る七月中旬、私たちはちょっとの躊躇(ちゅうちょ)もなかった。「ついに来るべきものがきたなあ」「やられたらやりかえすだけ」「たとえ何百人の死傷者が出ようとも、この闘いを守りぬこう」と真剣に考え、国家権力との衝突に備えて、連日炎天下に、突撃訓練を始めました。
 労働者はやっぱりあそこまでいきますと、腹がすわるものですネ。そのときの正直な気持ちでした。

三池闘争の事態収拾

 いよいよ七月十八日、政府と裁判所は警官の出動を要請。時を同じくして、組閣を完了した池田内閣は、ただちに中労委を動かし、職権であっせんを開始して事態収拾に乗り出したのです。中労委はこともあろうに、「一週間後にあっせん案を出す。まだその内容は決まってないが、労資双方とも文句を言わずにこのあっせん案をのむことを約束すること」と宣言。こうして強硬に休戦を求めたのです。
 中労委は双方にこの申し入れを行ったのですが、その中で「三池争議の中で過去二回のあっせん案を出したが、四月以降の新しい事態の進展を考慮にいれて最終的なあっせん案をつくる」という内容が盛られていました。現地三池での警察の実力行使まであと二時間足らず、「流血回避のため」を大儀として策動した政府に、中労委が手を貸すというまことに政治的な介入であったのです。
 「内容は言わない、しかし従え」という無茶な不当介入で中央が動いたとは全く知らない私たちは、警察の部隊が目の前から急に引き上げるのを見て、瞬間「ヤッタぞ! 勝ったな!」と思いました。同時にホッとしたのが正直な実感でした。
 しかし、事態が次第に明らかになるにつれて、腹がたってどうにも納得できず、一週間以上もの時を過ごしたことを今でもはっきり覚えています。
 結局中央の総評と炭労は、国家権力と組合がホッパーをめぐって激突すればどうなるのかということ、そして内部の力の限界、これからの世論など、差し迫った状況の中で重大な結論を出すことになる。あわせて「新しい事態を考慮して」の中労委の申し入れの言葉に期待し、組合に有利な状況を反映したあっせん案が出るとの判断もあり、ただちにあっせん案の受け入れを決定することになったのです。
 八月十日、三池の労働者と家族、いや日本中の目が中労委のあっせん案発表にくぎ付けになる。当時は、十戸に一戸ぐらいあったテレビの前でみんなかたずをのんで発表を待ちました。そして、夕方五時すぎ、「形の上で指名解雇を取り消し、その上で該当者は全員自発的に退職したものとみなす」という、千二百人の指名解雇を事実上認めたあっせん案を知らされたのです。
 みんな一瞬あ然として、言葉もありませんでした。ショックでした。時がたつにつれ、次第に中労委、政府、三井資本に対する不満というより、怒りでいっぱいとなり、同時に勝ち誇るであろう目の前の会社や第二組合幹部への憎しみが燃えたぎったものです。
 それから数日後、休戦とともにこの年のお盆がきたのですが、私たちの社宅では、みんなのカンパで集会所に三池闘争の中で暴力団に殺された久保清さんとともに、安保闘争の中で国家権力に殺された樺美智子さん二人の初盆を供養する小さな祭壇がつくられました。安保と三池の犠牲者をいっしょに供養しようという少しの冷静さも取り戻していたのです。
 しかし、これから先、一体どうなるのだろうという不安を抱えながらも、第二組合や会社に笑われたくない気持ち、そしてあくまで闘うしかないという労働者の誇りと闘志がまじって、複雑な日々を過ごしました。しかし敵と対峠(たいじ)しているこの時、私には敗北感や悲愴(ひそう)感はありませんでした。
 炭労大会に先立って総評が八月十四日、「三池争議の収拾に対する態度」を決定。十九日からの炭労大会も一時休会、九月再開してあっせん案を条件付きで受諾を決定。それを受けて年九月八日、三池労組は事態収拾についての意思決定を行うために中央委員会を開いたのです。約二千人の組合員と家族もつめかけ、緊張した雰囲気の中で十六時間もの討論のすえ、「これまでは指名解雇をめぐる闘いであったけれど、拒否して三池だけの闘いとなれば、組合の存続そのものが問われる闘いになる」として事態収拾はやむを得ないと結論を出したのです。
 こうして、全面無期限ストライキ突入以来実に三百十三日ぶりの六〇年十二月一日、私たちは全面就労し、事実上三池闘争は終結したのです。


 率直にいって、一つの組合が、どんなに強くなっても、全資本家、ましてや国家権力が正面切って立ちはだかってきた時、「敗北した」というこの事実は、労働組合運動の弱さも強さも含めた限界を骨身にしみて感じてきました。だからこそ、この失敗を繰り返さないためにも、この三池闘争を闘った労働者の一人として、また一組合員として率直な感想なり教訓を、次号から述べてみたいと思います。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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