三池闘争と私(1)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄


職制目指していた若い頃

闘いが私を変えた


意に反して炭鉱労働者に

 私は一九二八年、福岡県にある三池炭鉱の労働者の四男坊(九人兄弟)として生まれました。親子二代にわたる炭鉱労働者です。今年で七十一歳になります。

 敗戦の色濃い四四年春、当時の正義感に燃えた青年らしく軍隊に志願し、約二年間の軍隊生活を送りました。台湾で敗戦を迎えたので、現地で除隊し生活しようと思っていたのですが、政府の戦後復興政策の一環として、石炭産業と電機産業従事者の家族はただちに帰国せよとの強制命令が出たため、意に反して帰国せざるを得なくなりました。

 四六年三月に引き揚げてすぐ、三十二年間炭鉱で働いた父のあとを継いで三池炭鉱で働くことになった時は十八歳でした。それ以来、炭鉱でいろいろな仕事をしました。最初は「こんなに苦労せにゃいかんか」と思うと、しかもこれが生涯の仕事かと思うと、恐ろしくもあったし、いやでたまらなかった。しかし、兄たちはすでに化学工場で働いていて、私が辞めれば社宅を出なければならないので、はいつくばって採炭夫をしました。その間、落盤があったり、大きな岩の下敷になるなど「死ぬんじゃなかろうか」という危ない目にもあいました。腰や指を骨折するなど、今でも傷が残っています。

 入社して最初の七、八年間は、「早く出世して、あわよくば係長までなれるようがんばろう」と考えていました。会社の推薦で幹部養成の「鉱山学校」に通い、校長賞ももらったし、「この分では早い時期に職制にありつくかもしれない」と意気込んでいました。当時は、労働組合はできたばかりで、後に「眠れる豚」といわれるほど、完全に労資協調の時代でした。私も組合運動よりも自分の出世のため、会社のためにがんばっていた、そういう労働者だったのです。

考え方を変えたある事件

 そんな私の人生に変化が訪れたのが、二十五歳のときです。五三年に仲間の首切り反対闘争があり、家族ぐるみの大衆闘争として闘われました。後に「英雄なき百十三日の闘争」と呼ばれるこの闘いに私も参加しました。

 この時、初めてデモなどに参加したわけです。いやでたまらなかったのですが、みんなが青年部に入れというので入り、みんながデモに参加するのでデモにも参加したわけです。

 その闘争の中で、会社の作戦本部である「山の上クラブ」を徹夜で包囲し、ピケを張りました。仲間たちは気勢をあげていましたが、私は真夜中にピケから離れて友人と屋台に行きました。いい気分でピケに戻ると、クラブの中から係長をひきだして、わっしょいわっしょいと吊(つる)し上げていました(『山の上クラブ事件』と呼ばれた)。私はそれを「組合はなんとひどいことをするのか」と思って見ていたのです。

 ところがそれから一カ月ぐらいして、朝四時半頃、出勤するために朝食をとっていると、警察が来て私に逮捕状を突きつけ、牢屋に十七日間ぶちこまれました。吊し上げの現場近くにいた労働者が二、三人逮捕されて、私もそのうちの一人でした。

 警察で「悪いことはしていない」と言うと、警官が証拠を出せと言います。そこで「証人はいる。私の左側にはAさんがいたし、右側にはBさんがいたから調べてみろ」と、自らの証(あかし)を立てようとして話したわけです。すると私が名前をあげた人がどんどん逮捕されて、結局逮捕者は二十二人にのぼりました。その結果、私は起訴猶予で釈放されました。

 釈放されたうれしさに、仲間に迷惑をかけたとはさらさら知らずに組合にあいさつに行くと、「よくがんばった」と大勢の人たちが集まって激励してくれました。組合は十七日間、毎食差入れしてくれたり、毎日のように組合や弁護士さんなどが面会に来たりしていたので、私は励まされましたし、組合を身近なものに感じるようになりました。「組合が自分たちの身近なところにあり、私のように何も分からない組合員でも大事にしてくれる」と感じたわけです。

 また拘留中、となりの房に野田宇吉という元日本共産党員がおりまして、その時にはハレンチ罪、窃盗で入ってました。その人が毎晩、コツコツと壁を叩いて合図するので近寄っていくと、鉄格子越しに「労働者とは、資本家とはどういうものか」ということを話すわけです。私は看守に見つけられないか、そればかり心配でしたが、毎日話を聞くうちに、労働者の立場や、たとえば夫婦げんかもその多くは低賃金の生活実態からきていることなどがだんだんわかってきました。

 これらのことを契機に、組合活動に熱心になり、次第に闘争に参加するようになりました。そして闘いの中で次第に考え方が変わり、労働者や社会の仕組みがわかってくるようになりました。

 五四年夏には日本社会党に入党しました。組合では五八年に専従執行委員となり、十一年間やりました。そういう立場で六〇年の「三池と安保」といわれた大闘争など、いろいろな闘争を経験しました。

 六九年に、三池闘争以来初めて千人の機動隊が導入され、これと真正面から闘う宮浦闘争の中で、今度は指導者として逮捕されました。二十六日間拘留され、出てきたところを会社に解雇されました。当時四十一歳で、結婚して子どももいました。

 解雇されてしばらくは大牟田におりましたが、八〇年ごろに、政治を変革するための運動にささやかでも貢献できればと東京へ出てきました。そしてこんにちに至っています。

大失業時代に黙っていられず

 今、失業者が三百四十万人を超え、大失業時代に入っています。家庭の大黒柱として生計を支えている労働者が突然、リストラでクビになる状況が全国いたるところで起きています。私も一労働者として、あるいは少しは労働運動に携わった者として、この時代に黙っているわけにはいかなくなりました。私の経験から言えば、労働者がクビを切られた時やそういう不安が実際にあるときにどういう態度をとるかが非常に大事だと思います。「たてついてもしょうがない。そういう時代だから」と言う人もいますが、ちょっと視点を広くしてこれから将来のこと、地域や日本全体のことなどを考えれば、同じような立場の人がいっぱいいます。そういう人たちとともに、いっしょにがんばっていこうという気持ちをもつことが大事ではないでしょうか。

 これから「三池闘争と私」と題して、私の労働者として生活し、闘った経験をざっくばらんに話したいと思います。何せ私自身、長い間、三〇度を超すような坑内で毎日働き、帰ったら飯を食べながら眠ってしまうぐらいの重労働の中で生活を支えてきましたので、勉強する余裕もありませんでした。

 それでも私の経験がこんにちの労働者の皆さんに役立つかもしれないと思い、お話ししてみたいと思います。(10回連載予定)


「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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