三池闘争と私(4)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄

ストを打ってこそ労資対等

 結成したばかりの三池炭鉱労働組合は「眠れる豚」といわれていましたが、どんなふうに闘う組合になったかを、前回に述べました。

 戦後の激動する情勢の中、三池炭鉱の労働者たちは立ち上がろうとしますが、組合は労資の「対立よりも協調によって」労働者の生活を守ろうとしていました。しかしうち続く人員整理や賃金カット、あらゆる弾圧が重なる中、組合結成七年目にして初めて無期限ストを打って闘ったのが「六三闘争」でした。

 残念ながらこの闘いは政府の介入によって敗北するのですが、その中で、自分たちの生活や権利は労資協調ではなく、闘いによって守る以外にないと総括しました。そしてついに五三年の「英雄なき百十三日の闘争」で指名解雇を撤回して勝利するのです。

 ストライキを打ち闘う中で、だんだんと意識も実践も訓練されていきました。

 よく「労資対等」という言葉を聞きますが、組合がストライキを行使していくその時に初めて、本当の対等が実現されるのだと思います。私たちは、要求をかち取るために、職場で力をつけて、ものが言える労働組合にしていくことで初めて、そのことが可能になると考えるようになりました。それは当時の炭鉱労働者だけにいえることではなくて、今でも同じではないでしょうか。労働組合をつくっているだけで対等な立場に立てるわけではない。ストを打つ力をどうつけるかという努力なくして、「対等な立場」と言葉や文章でいってみてもあまり意味はないと思います。最近ではストもほとんどやられなくなっています。この大事なことが忘れられているのではないかという気がしてなりません。労働組合はもう一度、ストライキが労働者の武器であることを思い起こす必要があるのでしょう。

 そういうことが、私たちも「六三闘争」や「英雄なき百十三日の闘い」などの闘争の中で初めて分かってきたのです。

「首切りしない」と協定結ぶ

 一九五五年はじめ吉田内閣は、炭鉱労働者八万人の首切りと石炭産業四〇%の能率アップを内容とする石炭合理化臨時措置法を成立させました。これに基づいた三井の長期計画合理化提案に対し、組合は「経営方針変革闘争」として百四十三日の団体交渉(団交)を闘いました(「長計(長期計画)闘争」)。

 中央が団交している時、先にあげた世話方制度廃止の闘いや、会社の赤字を理由にした福利施設の縮小撤廃に反対する闘争や、大牟田地域にある労働組合との連携強化などを掲げて闘いました。そういう現場での長い闘いの結果、十一月に保安優先と長期計画協定で「首切りしません」と、完全雇用を今後の経営方針の第一義的な基本として確認させたりしました。

 このような協定はこれまでなかったことです。そういう大変な協定がかち取れたのも、企業内の六山の労働者の団結と、それぞれの闘争の結果です。と同時に、これからも闘争を維持し発展させていかない限り、それらの協定は空文化するという総括をしたのも重要なことでした。

 そして具体的には、大衆闘争を自分たちのものとして実践していくことと、企業内闘争から産業別の闘争(産別闘争)へ発展させていくことの方針を出したのです。

 五六年には、「到達闘争」と呼ばれる闘いで四十三日間のストライキを打ちました。

 組合は「英雄なき百十三日の闘い」の後、職場における闘争を重視してやり始めますが、実際には組合の強い職場と弱い職場では同じ労働条件でも内容に差が出てきたわけです。例えば同じ採炭夫でありながら、ある職場では賃金が一日で千円(当時)、他では八百円しか取れなかったとすると、同じ職種でこんなに差がつくのはおかしい。その格差をなくそうと闘いました。遅れた職場は進んだ職場の労働条件まで到達させるという意味で、「到達闘争」という闘いが各職場で組まれました。

 これは他の炭鉱や各坑内ごとに、格差是正をめざし、一千項目ぐらいの要求書を提出したのです。ところが逆に会社側は、この職場ごとの闘争を「山猫スト」(非合法)の口実で弾圧する動きに出てきました。

 組合は労働三法の団結権・交渉権・スト権を、組合本部から支部単位、職場単位に移譲して交渉と闘争をやりました。職場で要求を出し、団交し、納得できないなら支部や職場でストをやる。そこで会社はついにはじめてのロックアウト攻撃をかけてきました。組合は無期限ストライキで対抗しました。

 結局、この闘争では諸要求はかなりとれましたが、労働三権の各級移譲が適法かどうかは、労資の間ではもちろん、裁判所も政府も結論を出せずに保留のまま、スト解除になりました。

 この「到達闘争」は職場の民主化要求であり、差別撤廃、そして職制支配の排除という質の高い闘争でした。この闘いの中で、職場の分会長は一人ひとりが組合長と同じような意識や指導性や能力をつちかっていきました。私がいた宮浦支部では、そんな分会長が六十人ぐらいいました。このことは大変なことだと思います。

   *  *  *

 三池労組は、結成から七年目にして闘い始め、多くの失敗や闘いの中から教訓を学び、さらに闘い、ここまで前進しました。こうして強くなった三池労組をつぶすために、五九年、会社は指名解雇を打ち出しました。そして六〇年の「三池闘争」へ突入したのです。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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