三池闘争と私(6)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄

分裂の試練を乗りこえて


「会社あっての労働者」はウソ

 三池労組は六〇年一月二十五日、会社のロックアウト攻撃を「単なる事業所閉鎖でなく労組閉鎖だと受け止め、長期に闘い抜く」との声明を出し、ストに入りました。

 しかし実際の闘争は「生活苦」という現実があり、これとの闘い、つまり「一万円生活」の具体化は、本当に「家族ぐるみの闘争」でなければ実現できませんでした。

 この三池の闘いを、総評は争議手当から一人六百円、一月からは毎月五十円カンパを、炭労は勝利の日まで月々六百円のカンパと統一ストで支えようと、二月に大会を準備しつつあったのです。

 このことをもっとも恐れた会社は、三池労組の分裂と、三井の他五山のカンパ拒否と炭労脱退の策動に全力をあげました。

 会社の分裂策動は、五九年の九月頃から非常に顕著になってきていました。会社が金を出して東京まで批判分子の幹部を集めてこっそり学習会をしてみたり、職制や批判分子だけを集め、お寺などを利用して秘密の集会をもつなど、よく動いていました。職制の後をピタッと尾行していれば、どこで何をやっているのかがわかるくらいに、職制が一体となっておりました。

 彼らは組合員一人ひとりの思想、経歴、家族状況などを調査し、ABCDにランク分けして第二組合に引き込む人を選別し、これの説得に当たる人までも決めるということで、話し合っていたのです。すぐ落ちそうなAは二万円、一番困難なCを落としたら十万円やるとか、経営者は具体的に金をかけていました。

 闘争を闘う中でどうしても、戦闘的になっていく部分と反動化していく部分がでてきます。いつもは目立ちませんが、闘いが激しくなるほど、明らかになります。経営者はそこに目をつけ、意識して反動的になっていく部分を中心に中間勢力を組織化していく分裂の常套(とう)手段をとってきました。どこでもそうでしょうが、必ず経営者や職制が先頭に立って音頭をとり、その際には必ず思想攻撃が仕掛けられます。

 「会社あっての労働者だ」とか「会社がもうからなくて、なんで働く人がもうかるか」といいます。私たちはつい「そういえばそうだな」と思ってしまう弱さがあります。しかしちょっと自分自身の体験を考えてみれば、違うことがわかります。

 私の親父は三十二年間炭鉱で働きました。私は二十三年間働いてクビになったので、合計半世紀も三池炭鉱のために働き、腰の骨を折ってもがんばってきた。その五十五年間で三井鉱山はどんなに大きくなったのか。大変なものです。三井財閥をつくりあげ、日本だけじゃなくブラジルやカナダへまで資本投下して大きくなった。それが会社の実態です。一方、五十年間のうちに労働者はどうなったか。難しい理屈は別として、私の体験からいうと、親父は当時の平均寿命の六十九歳までも生ききれず、六十四歳で死にました。家一軒も持てなかったのです。この事実こそが、何よりの証拠ではないでしょうか。これは私一人の体験だけでなく、多くの三池炭鉱労働者の実態がそうでした。労働者はそういう態度や、実際で敵の思想攻撃をみなければならないと思います。

ついに組合が分裂

 三月に入ると三池労組は、会社の分裂策動に、組織をあげての反撃にでるのですが、会社の後押しを受けた「批判勢力」の行動はいっそう大胆かつ組織的になりました。そしてついに六〇年三月十五日の中央委員会で、彼らは「三池闘争の戦術路線の変更」を求めて、退場したのです。

 私は当時、敵の動きをつかむことを任務としていましたから、彼らの後をつけました。すると会場から二キロぐらい離れた市民会館に千人ほどが集まっていました。彼らは、自分たちの意見が蹴られたのでやむなく第二組合をつくったと言っておりましたが、会場は前もって会社の名前で借りてあり、人数も予測して折り詰め弁当や「三池炭鉱労働組合刷新総会」という看板まで用意していました。こうして翌々日、会社の力を借りた第二組合が分裂したのです。当時約一万千人が第一組合であり、約三千人の第二組合が闘いを放棄していったわけです。

 鉄の団結を誇っていた三池労組の分裂は、私たち組合員や家族に深刻な影響を及ぼしました。初めての経験でもあり、同じ労働者がいっしょに暮らす社宅という条件だけに、血で血を洗うというのは大げさかもしれませんが、職場、地域を問わず、この対立は全生活に及んだのです。

 主婦たちは隣のメシのおかずまで知り合った生活をしていました。炭鉱の労働者の強さも、一面そんな生活態度の中から、実は仲間づくりが出来てもいましたが、それがいったん、みんなの闘いを裏切り突然第二組合に行くと、「こんちくしょう、裏切りやがって」と、感情がものすごかったです。

 例えば五軒ならびの社宅になりますと、五軒を通じた下水道の溝があって、毎朝主婦たちが掃除する。そうすると、いままで第一組合員ばかりの時はみんないっしょにやる。ところが突然、まん中のAさんが第二組合へ行くと、もう翌日から溝掃除に出てこれなくなる。家に引っ込んで出られないのです。そうすると、その家の前は掃除はしてやらないわけです。あるいは子どもにも、あそこに行くなと親がとめる。もう労働者同士としてではなく、人間として否定してしまうというくらい、対立感情をむき出しにしてきました。それも「どんなことがあってもこの闘争を闘おう」という気持ちに比例して高かったのです。

 また指導部も、その感情を大事にすることで、第一組合の砦を守っていたという一面がありました。

 私たちは闘いの中で学びます。分裂で労働者が憎しみ合うことの損失を知るようになります。さらに奥の敵を知り、今度はそれに勝つためにより団結を強める方法を編み出します。

 そして実際、分裂当初のこの感情が一年がかりの三池闘争を支える資本への憎しみとなったのを忘れません。私たちは分裂させられてあらためて、仲間を信じることの尊さと仲間を裏切ることの愚かさとを体に刻みつけられました。

組合員が殺された! 世論を味方に反転攻勢

 会社は分裂させた第二組合を使って生産を強行し、一挙に勝負を迫ってきました。一方、三池を抱える炭労も、内部に動揺と一部の指令返上という最悪の事態へと発展、もはや、力と力の対決で三池闘争を解決する見通しを失い、ついに中労委に斡旋申請するという動きとなりました(三月二十七日)。

 私たちは、「この先どうなるんだろうか!」と正直、不安がいっぱいでした。しかし、労働組合である限り指名解雇を認めないという闘いの旗を降ろすわけにいかない。

 まさにそうした時でした。三月二十九日、会社のさしむけた暴力団は四山坑の正門で労働歌を歌うピケ隊に、ピストルやアイクチ、日本刀をもって襲いかかりました。そして久保清さんという当時三十二歳の第一組合員の心臓をアイクチで刺し、殺したのです。私たちは四月五日、追悼集会をもって「同志は倒れぬ」という歌を歌い、暴力団や警察や第二組合と一体となった三井資本への怒りを体ごと表現して、久保さんの霊前に闘いの勝利を誓いました。「三池でスト中の労働者が、会社のお抱えの暴力団に刺殺さる」のニュースが全国に伝わるや、それまで三池労組に批判色を強めていたマスコミの論調も変わり、世論がガラリと変わりました。

 私たちは再び自信を取り戻し、意気が上がってきました。四月六日、「首切り容認」の斡旋案も拒否。分裂の試練を乗り越えて三池労組は団結を固め直し、力強く前進するようになりました。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(3)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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