三池闘争と私(3)

元三池炭鉱労働組合執行委員 藤沢 孝雄

「眠れる豚」から闘う組合へ


賃上げで初ストライキ闘争(52年、63日の闘争 )

 戦後まもなくの一九四六年二月三日、三池炭鉱労働組合は結成されました。組合結成の準備委員になったのは、戦時中の「産業報国会」の委員でした。結成大会には警察署長や三池鉱業所長、保守の大牟田市長などが参加してあいさつしたことでもわかるように、典型的な御用組合で、会社の援助の下に結成された組合でした。

 日本の情勢は五〇年に朝鮮戦争が勃発し、五一年にはサンフランシスコ講和条約、日米安保条約が政治問題化します。五二年には血のメーデーがあり、政府は破壊活動防止法案や労働三法改悪で労働者に対する弾圧を厳しくしました。そんな情勢の下で、炭鉱ではクビ切りが行われ、増産体制が敷かれました。

 組合はストをやるより労資共同で政府に要請することで解決されるという考えで、増産に埋没しました。しかし劣悪な労働条件や猛烈なインフレの下で、労働者の生活は大変でした。当時の組合機関紙に掲載されたかるたは「タ、誰がため掘る石炭か、この暮らし」など組合員の声を表しています。

 一九四九年七月に第一回の人員整理が出され、三百三十六人が指名解雇されました。五〇年七月には全国的に行われたレッドパージで、三池炭鉱では百九十七人が指名解雇されました。十一月には第二回の人員整理があり、希望退職募集で、四千六百四十七人が退職していきました。私の弟もこの時に退職しました。このような人員整理を組合は闘わずに認めるわけです。

 炭鉱では戦後、特別優遇政策が取られます。他産業のコメ配給は一日二合三勺でしたが、炭鉱では一日出勤すれば六合くれました。そのコメ欲しさに低賃金でも労働者が集まったわけです。また、出勤ごとにしょうゆや地下足袋などの報賞制度がとられました。このような政策の下で炭鉱労働者はものすごく増えました。

 しかし、賃金はぜんぜん上がらない。当時、全国の炭鉱で「七百円封鎖」といって、どんなに働いても月七百円以上は現金で払わず、会社に貯金するという賃金制度になりました。これで賃金は頭打ちなのに、インフレで物価はどんどん高くなる。

 また五二年には、会社から標準作業量の引き上げ、労働強化、賃上げ要求へのゼロ回答が出されました。労働者の中で賃上げを求める声はだんだん高まり、それまで労資協調で増産体制にくみしてきた組合も、ついに賃上げを要求して闘争に入らざるを得なくなったのです。

 それまで「眠れる豚」と呼ばれた闘わない労働組合が、圧倒的多数でスト権を確立し、結成以来七年目にして初めてストライキを打ちました。しかし、朝鮮戦争がどんどん厳しくなる情勢の中で政府が直接介入し、緊急調整令が発動されてストライキは中止させられました。六十三日間のストライキとなったので、「六三闘争」と呼ばれてました。

 この闘いでは、賃上げ七%(要求の六分の一)と一時金五千円は得ましたが、結局政府の弾圧で負けたわけです。

 私も一労働者としてストに参加しました。スト中は組合の指示で毎日、土方をして生活を支えました。賃金は出ないし家族も多い。苦しかったけれども、なぜかストライキはやめたくなかったのです。生活をかけてストライキしているので、立ち上がった以上はなまじっか妥結するなという雰囲気がありました。ですから、スト中止が出た日は、徹夜でかがり火をたいて、ピケをはり、皆泣きました。私は「なぜストを中止するのか。なぜ政府はわれわれの闘いに介入し、弾圧するのか」という気持ちになったことをはっきりと覚えています。

 組合はこの闘いを通じて、次の合理化攻撃に備えるために、また、その後の闘う三池労働組合につながるような三点の総括をしました。一つは、最悪の場合は独走もあえて辞さない組合(自力で闘い得る組織)をつくろう。二つ目は、幹部闘争から大衆闘争を基本にすえよう。三つ目は、闘いの基本に職場組織だけでなく、居住地にも地域分会や主婦会などの組織をつくろう。そして、この総括に基づいて非常に具体的に組織づくりを始めました。

英雄なき百十三日の闘いで勝利(53年)

 朝鮮戦争が終結し非常に不景気になりました。一九五三年、吉田内閣は「スト規制法」で炭鉱、電産(電力)のストを規制しました。そのスト規制法が公布された八月七日に、会社は五千七百三十八人を指名解雇しました。これに対し、三池労組は百十三日のストライキを打って指名解雇を撤回させました。

 この闘いでは六三闘争で総括したように、「幹部闘争から大衆闘争へ」の路線でさまざまな闘争が組まれました。

 全面無期限ストは敵にも打撃が大きいけれども、組合にも打撃になり負けた経験を持っているので、この時は部分ストの闘争体制を編み出しました。つまり、石炭を地上へ運び出すベルトを動かす数人の労働者を指名してストライキに入れることで、全面無期限ストと変わらない効果があり、ほとんどの労働者は働くため会社には賃金も要求できたのです。

 また一斉一時間の休憩を要求して職場で闘争を起こしたり、毎日のように抗議行動したりしました。主婦会もデモや経営者に抗議行動をするなど、連日のように闘うわけです。その結果、最後まで組合に残って闘った千八百二十五人について解雇撤回させ、その上に職場復帰をかち取りました。ここで、闘争の結果、初めて首がつながったわけです。また解雇撤回と同時に世話方制度やいろいろな差別制度を撤廃させるための闘いをしました。「現場七時間協定」を破棄し、賃金対象時間として坑口から坑口までを初めて労働時間とすることができました。このように職場の民主化闘争や人権闘争も含めて闘ったのです。

 指名解雇を撤回させたことで組合は闘争に自信をつけ、闘うようになり有利な条件ができました。この日々の職場闘争で組合が闘うことで権利を高め、自覚を高め、条件をかち取って行くということを経験するのです。

 この闘いは全労働者の力で要求をかち取ったという意味で、「英雄なき百十三日間の闘い」と呼ばれるようになりました。


「三池闘争と私」(1)
「三池闘争と私」(2)
「三池闘争と私」(4)
「三池闘争と私」(5)
「三池闘争と私」(6)
「三池闘争と私」(7)
「三池闘争と私」(8)
「三池闘争と私」(9)
「三池闘争と私」(10)
「三池闘争と私」(最終回)


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