中国をにらんだ日本の軍備増強など、日中関係が悪化する事態を見るにつけ、私は戸毛敏美先生から教わったことを思い出す。大阪府日中友好協会で長く親しくさせていただいている先輩だ。
戸毛さんは1936年に中国東北部黒竜江省のハルビン市で生まれた。戸毛さんの父は獣医で、満州を支配していた日本陸軍・関東軍から中国東北地方の馬の品種改良を命じられ、ハルビンの種馬場長として勤務していた。
戦後、戸毛さんの父は技術者として中国に残り、人民解放軍の幹部になった。49年に解放軍によって北京が解放されると、戸毛さんの父は北京転勤となり、一家は北京に住むことになった。当時の北京には日本人学校がなく、戸毛さんは初めて中国の中学校に編入された。新中国設立の怒濤(どとう)のような時期を、中国の若き学生たちと勉学に励みながら、日中関係のさまざまな矛盾について意見を交わしたという。
その時の経験と決意こそ、「二度と戦争はしない」という日中不再戦、国交正常化への強い思いと活動の原動力となった。そのような話を聞き、気が引き締まる思いがしたのを覚えている。
賠償問題の討論会の話
戸毛さんから聞いた話を紹介したい。
52年、日本は台湾に敗走していた蒋介石と「中華民国の代表」として国交を回復した。その際、蒋介石は日本に対する戦争賠償を放棄するとした。
もちろん、49年に中華人民共和国(中国)は成立していたので、日本への賠償をどうするか、当時の中国では周恩来首相の指導の下で全国的に徹底的に議論されたそうだ。
当時、戸毛さんは北京の中学生だった。歴史の授業で討論会をすることになり、日本人である彼女は教師から「参加しなくてもいい」と言われたが、彼女は「ぜひ参加させてください」言って参加を許可してもらったとのことだ。
授業で生徒たちは泣きながら「賠償金放棄なんて認められない、蒋介石は間違っている」と次々と主張したとのこと。北京周辺で日本軍が行った三光作戦(殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす)によってほとんどの生徒の家族は多大な被害に遭っていた。
また、日清戦争では日本は膨大な戦争賠償金を中国・清朝政府から奪い取った歴史もある。当時の国家予算の5年分ともいわれる金額を日本に支払った。世界中の銀行から借りた日本への賠償金を返済するのに40年かかった。中国人民にかけられた人頭税は重く、激しい取り立てで一挙に苦しい生活を強いられるようになった家族は珍しくなかった。
学生たちが散々泣いて訴え終えたころ、教師は「皆さんはこの苦しみを被害者である日本の人民に与えるのか」と問いかけたそうだ。そこからまた議論は白熱、一人また一人と戦争賠償放棄に理解・賛成し始め、戸毛さんは友達と抱き合って泣いたとのことだ。
戸毛さんはこの時、日本に帰国したら必ず日中国交正常化を勝ち取り、中国人民の「痛み・苦しみ・悲しみ・悔やみ・恨み・憎しみ・悩み」の「七み七み」ならぬ思いを伝える、そう誓ったと話していた。
戸毛さんの目指すもの
戸毛さんは北京人民大学を卒業後、58年に日本に帰国した。23歳だった。帰国間もない60年に安保闘争が起こり、全国の学生・労働者が立ち上がった。中国を敵視する日米安全保障条約の改定反対運動の国会デモ。戸毛さんも参加し闘った。
その後、戸毛さんは日中経済の相互発展のために尽力した。ニチメンや日中経済貿易センター(現)などで三十数年にわたって貿易業界に勤務し、その間に日本の企業・財界人と中国政府要人との会談に通訳として同行、数々の歴史的な場面で活躍した。
退職後は関西外国語大学で教べんをとり、現在も府日中友好協会副会長として日中友好民間活動の先頭に立っている。御年米寿、88歳。日々原稿を書き、講演し、日中の学生たちを導いている。日中不再戦への揺るぎない思いを胸に。
2年前の9月には「七み七みならぬ思いー日中国交正常化50周年と私」を世に出した。この200ページ強の冊子には、中国と日本の間で激動の時代を生きてきた戸毛さんの経験と教訓がキラ星のようにちりばめられている。
「私の経験を、特に若い方々に読んでいただき、これから50年、日中友好関係がもっと大きく発展しますよう、活かして頂きたいと願っております。そして日本が二度と戦争をしない国にするため、頑張りましょう」と同書には記されている。
戸毛さんの経験を生かし、日中両国が国交を正常化させたことの重みを歴史の教訓とし、今後の関係発展につなげなければと改めて思う。