「国家と個人」「恐怖と連帯」問われる私たち
このドキュメンタリーは、「国家に属するとはどういうことか」という問いを、きわめて具体的に、逃げ場のない形で見る者に突きつける。インドにおける市民権改正法(CAA)をめぐる抗議運動を記録した本作は、制度の暴力にさらされる個人の「声」を歴史の中に刻むための切実な試みである。(大学生・金澤伶)

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2019年に制定されたCAAは、宗教によって市民権付与の対象を区別する点で、インド憲法の掲げてきた世俗主義と明確に衝突する。イスラム教徒のみが制度的に排除されうる構造は、人びとに「あなたはこの国の一員なのか」と問う装置として機能する。また証明書を提示してインド市民として登録する「国民登録簿」が全国規模で作成されるのではとの臆測も広がる。書類や財産の名義を持たないことの多い女性や社会的弱者にとって、この制度の実施は即座に「存在の不確かさ」の危機感として立ち現れ、女性たちを抗議へと突き動かした。
そのとき路上に現れたのは、ニューデリー南部のイスラム教徒居住区であるシャヒーン・バーグの女性たちだった。彼女たちは活動家でも政治家でもない。子どもを育て、家族を支えながら暮らしてきた、いわば「普通」の人びとだ。
当初は警察によって負傷させられた学生の親が中心に立ち上がった。19年12月、CAAが成立した翌日に起きたジャミア・ミリア・イスラミア大学での学生たちの抗議に乱入した警察の暴行によって、200人もの負傷者と逮捕者が出た。しかし彼女たちは、夜の冷え込みの中で100日以上も交代で座り込みを続け、自ら食事を振る舞い、抗議の場を生活の延長としてつくり替えていく。映画の中で広がるその光景は、抗議運動というよりも、もう一つの有機的な社会のように見えた。
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本作で繰り返し映し出されるのは、彼女たちの言葉である。その中でとりわけ強く響いたのが、「私の愛国心を信じてほしい」という一言だった。この言葉は、自己弁護というよりも、むしろ「不当に国家から疑われる側」に立たされた人間が、それでもなお国家との関係を断ち切らずにいようとする、ぎりぎりの位置にある言葉だ。愛国心が忠誠の証明として要求されるとき、それはすでに暴力の一部になっている。しかし彼女は、それでもなお「信じてほしい」と言うのだ。
監督は言う。「インドには、分離独立の歴史があり、時の政権が常にいろんなコミュニティーや土地を分断し、権力はそれを利用してきた。その一方で、ブラザーフッド、隣人を愛す歴史や文化もある」と。彼女たちの「愛国心」とは、つまり「隣人への愛」なのだろう。この言葉の持つ繊細さと強靭さの同居に、私は言いようのない切実な想いを感じた。
もう一つ、「私たちは英国と闘ってきた自負がある。手に入れた自由を失いたくない」という発言も忘れがたい。抗議者は、現在の状況を、植民地支配という過去と地続きのものとして捉えていることを示している。つまり、国家による抑圧が外部からの支配であれ内部からのものであれ、人びとにとっては同じく「自由の剥奪」として経験されるということだ。
その発言を裏付けるように、当時のトランプ米大統領の訪印を隠れ蓑に、強制排除と暴力が広がっていく。モディ首相率いるインド人民党所属の政治家がデモ隊を排除するように警察に最後通牒を突きつける演説を行ったことで、数時間のうちに抗議者とイスラム教徒を狙った暴動が起きた。その只中で発せられた「正義はどこ? 政府はどこ? 私たちの国はこんな国だったの?」という問い。これは、映画の中でもっともむき出しの言葉だろう。通報しても警察が来ない、あるいは来ないことが選択されているという状況は、国家の不在ではなく、むしろ選択的な存在を意味する。守られる人びとと、守られない人びと。その線引きが露骨に現れたとき、「国家」はきわめて具体的な暴力として立ち上がる。抗議活動を報じないメディアの沈黙と、警察の機能不全。国家が「見せるもの」と「見せないもの」を操作し、暴力は単なる事件ではなく、構造として持続する。
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本作の重要な点は、こうした暴力や制度を告発するだけにとどまらないところにある。監督自身が、自分の怒りや恐怖をどのように引き受け、どのように語るのか。そのプロセスが丁寧に編み込まれている。
監督のノウシーン・ハーンは、抗議運動を外側から観察するのではなく、自らの揺らぎを含めてその内部に身を置く。もともと信仰から距離を取り、社会に適応することで自分の立場を保ってきた監督にとって、ヒンドゥー至上主義の台頭とCAAは、自分のそれまでの生き方をも揺るがすできごとだった。だからこそ本作は、客観的な記録であると同時に、「巻き込まれてしまった一人の人間」の視点を持つ。
彼女は当初、よりジャーナリスティックな、感情を排した記録を目指していたという。しかし時間を経て、自分の感情そのものがこの問題と不可分であることに気づく。中立であることが、必ずしも真実に近づくことではない。むしろ、どこに立って語るのかを引き受けることこそが、現実に触れるための条件になる。
活動家たちが不当に逮捕され、裁判も行われないまま拘束され続けているという現実。監督はそれを「悪者に仕立て上げる」と表現した。権力は単に抑圧するだけでなく、物語をつくり替える。誰が加害者で誰が被害者なのか。その境界を操作することで、暴力は正当化される。
この構図は、決してインド固有のものではない。むしろ、現代世界の多くの場所で見られる傾向である。監督自身が語った「自分が次のターゲットになるかもしれない」という感覚は、こうした状況の中で生きる者のリアリティーを端的に示している。過去のSNS投稿さえ問題にされうる社会において、発言することは常にリスクを伴う。それでも彼女は、記録し続けることを選ぶ。その理由として語られたのが「忘れられてしまうこと」への強い危機感だった。
ドキュメンタリーとは何か。本作はその問いに一つの答えを与えている。それは、周縁に追いやられた声を、時間の中に固定する営みであるということだ。できごとは、報道されなければ存在しなかったことになる。しかし記録され、語り継がれることで、それは別のかたちで生き続ける。シャヒーン・バーグの女性たちの座り込みが、単なる過去のできごとではなく、「参照可能な記憶」として残ること。そのこと自体が、すでに抵抗の一部である。
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同時に、この映画は希望についても語っている。ただしそれは、楽観的な未来像としてではない。むしろ、絶望の中でなお手放されなかったものとしての希望である。宗教や立場を超えて人びとが集まり、ジャミア大学で「これはムスリムだけの問題ではない」とある学生が声を上げた場面は象徴的だ。ある特定の集団が排除されるとき、それはやがて社会全体の問題へと広がる。そのことを直感的に理解した人びとが、連帯を選んだ。
最後に監督が日本の観客に向けて語った言葉がある。「あなたは一人で闘っているのではない」。このメッセージは声を上げることが孤立ではなく関係の中で生まれるという認識に基づいている。非暴力の抵抗、異なる他者への想像力と愛、そして継続すること。シャヒーン・バーグの女性たちの実践が、今どの社会においても必要とされている。
モディ首相や与党政治家たちは、抗議活動を危険なものとして語り、メディアの一部も陰謀論やイスラムフォビアを増幅させた。CAAに反対する人びとは「非国民」「国賊」とみなされ、宗教間の分断が煽られていく。その空気はSNSで拡散し、抗議者やイスラム教徒への襲撃へとつながった。
この映画を観ながら、私は「政治に関わる」という言葉の意味を考え直さざるを得なかった。特別な思想や立場がある人だけが関わるものではなく、自分の生活が脅かされるとき、人は否応なくそこに巻き込まれる。そして、そのときに何を選ぶのかが問われる。沈黙か、発言か。その選択は小さく見えて、しかし決定的である。
本作は、遠い国のできごとを伝える映画ではない。それは、いま私たちが立っている場所を照らし返す鏡である。国家と個人、記録と忘却、恐怖と連帯。その交錯の中で、私たちはどのように生きるのか。その問いは、スクリーンの外に出たあとも、静かに、しかし確実に残り続ける。
2023年、インド作品、監督・編集・撮影:ノウシーン・ハーン
山形国際ドキュメンタリー映画祭2023にて市民賞〈観客賞〉受賞
6/6(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開