米日支配層が「台湾有事」をあおり、日本と中国が再び戦争状態になる危険性が増している。
1972年の日中国交正常化の際に締結された共同声明で、日本は「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認」「(台湾が中国の一部であるという)立場を十分理解し、尊重する」とした。共同声明で約束した「一つの中国」の立場を守り、中国の内政問題である台湾に干渉しないことが重要である。
これと併せて重要なのが、共同声明前文で「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」としていることである。
十分な形とはいえないが、日本は中国への侵略と植民地支配について「深く反省」したのである。台湾問題だけでなく、この表明なしに、日本と中国が国交を正常化させることはできなかった。
侵略植民地支配の蛮行
なぜなら、日本は日清戦争以降の約50年にわたり、中国への侵略と植民地支配を継続させてきたからである。
その経過は別掲の通りだが、20万人以上を殺害した南京大虐殺、中国人を「マルタ」と呼んで人体実験を行った731部隊、女性の性奴隷(慰安婦)化など、旧日本帝国主義は蛮行の限りを尽くした。
日本による侵略と植民地支配の結果、約2000万人の中国人民の命が失われた。日本に強制連行された労働者は約4万人で、うち7000人が死亡している。
中国人民が「日本鬼子」と呼び、日本を深く憎んだのは当然である。
困難をきわめた正常化交渉
第2次世界大戦後、米日は台湾(蒋介石政権)を正統としていた。だが、71年の「アルバニア決議」(中国の国連復帰)やベトナム戦争などで、米国は対中国関係の修正を強いられ、「上海コミュニケ」を結んだ。
対米従属の日本はこれに規定されつつ、独自の狙いを含めて日中国交正常化に踏み出した。
当時の田中角栄首相は、自民党内右派の圧力もあり、正常化の困難さを理解していた。
その田中首相でさえ、訪中の際に問題を起こしている。
周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民はきわめてひどい災難をこうむり、日本人民も大きな損害を受けました。前の事を忘れることなく、後の戒めとするというが、われわれはそのような経験と教訓をしっかり銘記しておかなければならない」と述べたのに対し、田中首相は以下のように述べた。
「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」
周首相は以下のように不満を表明した。
「田中首相の過去の不幸なことを反省するという考えは、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の中国人民に迷惑をかけたとの言葉は中国人民の反感を呼ぶ」「中国では迷惑とは小さなことにしか使われないからである」
台湾問題だけでなく、侵略戦争への「反省」問題は、正常化交渉における重大問題であった。冒頭に挙げたように、日本が「責任を痛感し、深く反省」したからこそ、正常化できたのである。
中国における人民教育
中国にとっても、日本との国交正常化は容易ではなかった。
共同声明に「侵略戦争」と明記しなかったことどころか、日本との正常化自身に、大きな反発があったからである。
この事情は、胡鳴・浙江旅游職業学院旅游日本語学科長の2つの論文、「田中訪中における中国の国民教育キャンペーン」(2007年)、「田中訪中における中国の国民教育キャンペーン」(12年)に詳しく記してある。
中国政府は、田中訪中の約1カ月前、国務院の名の下、周恩来自身が筆を入れた「日本の田中首相訪中の接待に関する内部宣伝大要」指示書(以下「指示書」)を各級政府に伝達した。
そこでは、日本との国交正常化を実現する利点として、以下を挙げている。
①米国、ソ連の両覇権主義国に反対する闘争に有利である。特にソ連修正主義に反対する闘争に有利である。
②日本軍国主義の復活に反対するのに有利である。
③わが国の台湾を解放する闘争にも有利である。
④アジアの緊張情勢を緩和するのに有利である。
その上で、最後に以下の記述で結んでいる。重要な箇所なので、胡鳴氏の翻訳のまま引用する。
「過去において日本軍国主義が長期的に中国を侵略し、日本兵のもたらした苦しみを十分に味わった。家が壊され、家族がばらばらになった。深い恨みはいつまでも忘れがたい。日の丸を見ると腹が立つ。それなのに、なぜ、日本の首相を中国に招くのか、納得できないという人もいるであろう。このような気持ちはよく理解できる。日本軍国主義が中国人民に災難をもたらした歴史は忘れてはならない。しかし、我々は感情で政策を決めてはならない。我々は広範な日本人民も侵略戦争の被害者であることを認識しなければならない。過去、中国侵略を行ったのは日本軍国主義者であり、日本人民には責任がない」
中国は賠償請求を放棄した
しかも、中国は、日本への賠償請求を放棄した。「指示書」にもこの内容は含まれている。
これについて周首相は、「賠償を求めれば日本人民に負担がかかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。清の時代には2億5000万両も日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。(中略)賠償を人民にかけることはよくない」と述べている。
「指示書」を受け、中国全土で各組織別の国際情勢および日中関係に関する学習が行われた。胡鳴氏は上海での例を挙げているが、幹部1万人以上が数日にわたって集められ、集中学習が行われた。
学習会後、幹部たちは各自の職場に戻り、まず、人々が田中訪中をどのように受け止めているのかについて聞き取り調査の結果を上部に報告した。
そこで出た意見は、おおむね以下のようなものであったという。
①日本の侵略戦争で家族を失い、故郷を離れ、大変苦しいことを味わった。この仇(あだ)を一生忘れられない。
②なぜ、突然日本と講和し、国交正常化を樹立しなければならないのか、理解ができない。
③日中戦争で日本人に大変騙(だま)され、苦しめられた。国交正常化についても再び日本人に騙されてはいけない。
④中日国交を正常化するなら、当然日本に戦争賠償を要求すべきである。過去に中国民衆にあれほど大きな損害を与えたのだから、遠慮する必要はない。
当時は、日本の敗戦から二十数年しか経過していない。日本の蛮行の直接被害を受けた人民は、多数生存していた。以上のような反発があったのは当然である。
とくに、東北地方での教育活動は難航したという。東北地方の幹部からは「賠償を取らない方針は分かるが、東北地方では15年荒らされ非常な損害を受けているので、東北地方に関する限りは賠償を取って、我々の損害を補償してもらいたい」という申し入れがあったという。
共同声明の原点に理解を
このように、日中共同声明は侵略戦争と植民地支配に対する、日中双方での異なる努力があってこそ結ばれたのである。とくに、当時の中国人民の気持ちと、説得・教育した中国共産党の努力を理解することが重要なのではないか。
しかるに、右派勢力による侵略戦争と植民地支配の歴史に対するわい曲策動に反対する進歩勢力の一部が、日中共同声明の「責任を痛感し、深く反省」という意義を理解せず、それと結びついた「一つの中国」の立場に無自覚なのは、どうしたことか。
日中共同声明締結の原点に戻ることは、こんにち的意義が大きい。(O)
日本による中国侵略と植民地支配
1894年 日清戦争
1895年 下関条約:台湾と澎湖諸島、巨額の賠償金を奪う
1900年 義和団事件に出兵(北清事変)、北京議定書
1905年 ポーツマス条約:日露戦争で満州鉄道の権益奪う
1906年 関東都督府、南満州鉄道を設置
1914年 日本が第1次世界大戦に参戦:青島要塞(ようさい)、山東半島を攻撃
1915年 対華21カ条要求:ドイツ山東権益の継承など
1917年 西原借款:軍閥・段祺瑞への支援
1927年 山東出兵
1928年 張作霖爆殺事件(満州某重大事件)
1931年 柳条湖事件(満州事変)、三光作戦開始
1932年 上海事変、「満州国」建国、平頂山事件、慰安婦(性奴隷)制開始
1934年 「満州帝国」成立
1935年 「冀東(きとう)防共自治政府」(華北分離工作)
1937年 盧溝橋事件(日中戦争本格化)、南京大虐殺
1938年 重慶爆撃開始
1940年 731部隊創設
1942年 中国からの強制連行開始
1945年 日本敗戦