戦後80年を迎えた。旧日本帝国主義による侵略と植民地支配を受けたアジア諸国にとっては「解放80年」だ。併せて日韓基本条約から60年でもある。朝鮮は日本による過酷な植民地支配を受けたが、日本政府は現在までこの歴史に真摯(しんし)に向き合っていない。戦後80年に際して、南北朝鮮との関係を改めて問い直すことは、中国をはじめグローバルサウス諸国と真の信頼関係を構築する上でも欠かせない。日本と朝鮮の関係について、吉澤文寿・新潟国際情報大学教授に聞いた。(文責・編集部)
敗戦80年の今年は日韓基本条約調印による国交正常化から60年の節目でもある。
石破茂首相は、8月15日に際し、私的に談話を出すことを予定しているようだ。朝鮮、中国、アジア諸国への侵略と植民地支配に対してどのような内容のものとなるか、注視しなければならない。日本による侵略と植民地主義への向き合い方が問われている。

日本の朝鮮支配は強制占領
明治維新後の1875年、日本は江華島事件で朝鮮に開国を迫り、翌年に日朝修好条規を締結した。当初は中国(清)の冊封体制から朝鮮を切り離すことが狙いだった。
日清戦争のきっかけになった甲午農民戦争(94年)で、日本軍は数万人の朝鮮民衆を虐殺した。日清・日露の両戦争は朝鮮を主戦場とし、その支配権を争った戦争であった。朝鮮人民の意思はまったく無視された。日本公使らによる明成皇后(閔妃)暗殺事件(乙未事変、95年)もあった。
日本は日露戦争中の1904年、当時の大韓帝国に「第一次日韓協約」を押し付け、日本人の財政・外交顧問らを送り込んだ。翌年には「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」で韓国の外交権を奪い、これを保護国化した。当時の駐韓公使・林権助の回顧録『わが七十年を語る』には、あらかじめ軍隊を動員して第二次日韓協約を締結させたことが明記されている。彼は閣僚などが条約に抗議して自殺する可能性を知りながら、「何とも思わない」とも述べている。
大韓帝国の高宗はこれを認めなかったため、強制的に退位させられた。軍隊も解散させられた。日本は韓国内の抵抗運動を弾圧し、10年に「韓国併合」を実現させた。
このような朝鮮植民地化の本質は、国家主権の不法な簒奪(さんだつ)にほかならない。この過程は強制的なもので、国際法の手続きとしても瑕疵(かし)があるものであった。
なお「併合」という言葉は「韓国併合」の際に「併呑(へいどん)」のような侵略的ニュアンスを薄めるとともに、ある領土を日本領とする意味を持たせるために外務官僚らが選んだ用語。実態は「強制占領(強占)」というべきである。
こうして朝鮮半島は日本の植民地として支配され、三・一運動への大弾圧(19年)、関東大震災時の朝鮮人虐殺(23年)、皇民化政策と強制動員などが強行された。朝鮮は中国侵略のための前線基地でもあった。朝鮮はまさしく、日本帝国主義がつくった「巨大な監獄」であった。
植民地支配反省せぬ日本政府
45年の日本の敗戦によって朝鮮は解放されたが、米ソ両軍により分割占領され、48年にそれぞれの政府が樹立された。日本は50年6月25日から始まった朝鮮戦争に関与し、南北分断に加担した。朝鮮戦争は、こんにちでも停戦状態である。
サンフランシスコ講和条約(51年)では、日本による植民地支配の責任は問われず、賠償義務も示されなかった。これに基づいて、日韓基本条約と日韓請求権協定などが調印され、日韓両国は国交を正常化させた(65年)。
条約の交渉過程で、韓国側は植民地支配の責任を追及したが、日本側はそれを否認し続けた。久保田貫一郎首席代表らは日本の朝鮮統治が朝鮮人に有益だったという発言を繰り返した。
植民地支配をめぐる日韓対立に、米国が介入して妥協が図られた。日韓の外務官僚が調整の上で、65年2月、椎名悦三郎外相は金浦空港で「両国間の古い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾でありまして、深く反省するものであります」と述べた。
だが、「併合」以降の日本による植民地支配が、国際法的に不法だったかどうかという点については、今なお日韓両国は見解を異にしている。
日韓基本条約第2条には「(10年の併合条約締結)以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」とある。日本政府は「もはや無効」を「かつては有効だったが、韓国政府樹立により無効になった」と解釈している。日本による植民地支配は国際法的に合法・有効だったという立場だ。
対して韓国側は「併合条約を含む一連の条約はもともと無効だった」と解釈している。
日韓請求権協定によって強制動員被害者の賠償請求権が解決されたかどうかという点も、両国の解釈は異なっている。
日本政府は一切「解決済み」という態度である。韓国政府は同協定が植民地期の債務・債権を処理したものであり、反人道的不法行為による被害の問題が未解決であるという立場だ。
こうして日本は植民地支配の不法性を認めないまま国際社会に復帰した。韓国の被害者からの要求に対しては、政治目的でわずかな「人道的対応」を行ったのみである。同時に、朝鮮民主主義人民共和国への敵視を続けることで、分断体制を強化した。
私はこれを「1965年体制」と呼んでいる。
強制動員された朝鮮人労働者や日本軍「慰安婦」などの諸問題が続いているのは、植民地支配の不法性を否定する「1965年体制」が残存していることに由来する。日本政府は植民地支配に対する責任を不問にしたまま、韓国世論の「好転」に期待するという無責任な態度を取り続けている。
支配責任の追求は世界の流れ
87年の韓国の民主化を前後して、韓国だけでなく他のアジア諸国でも、植民地支配の被害者が声を上げ始めた。冷戦終結後、多くの旧植民地が発言力を高め、植民地主義を告発し、植民地支配の責任を問う声が強まった。
日本でも、在日韓国・朝鮮人の運動が起こり、支援も広がった。
日本政府は、河野談話(93年)や村山談話(95年)で対応しようとした。だが、植民地支配に対する責任を認めない「1965年体制」は維持されたままだ。在外被爆者支援や「アジア女性基金」などは、あくまで「人道的対応」として行われた。これは、被害者・支援者の分断にもつながった。真正な謝罪を求める被害者に対して、日本政府はその対応を回避し続けている。このことが植民地支配の歴史をめぐる日韓間の葛藤の根本要因である。
朝鮮民主主義人民共和国との関係では、小泉純一郎政権下で日朝平壌宣言(2002年)が出されたが、現在まで国交正常化に向けた交渉の進展はない。日本は日韓国交正常化当時と同様に、植民地支配責任を認定しない方針であるため、日朝間で植民地支配をめぐる問題で合意するのはさらに困難だろう。日本政府は「拉致3原則」(注・次頁)を口実にして一切の責任を回避し、敵視政策を続ける一方、韓国に対して実施した「人道的対応」さえ行っていない。
もし、日本政府が「金正恩委員長と無条件で会う」というなら、この「3原則」を撤回し、日朝間の諸懸案を話し合うための国交正常化交渉を再開すべきである。
在日韓国・朝鮮人に対しては、国際人権規約や難民条約などの国際条約加入によって改善された面もあるが、「内外人平等」には程遠い。特別永住者とそれ以外の外国人、朝鮮学校とそれ以外の学校など、さまざまに処遇差を設けて分断している。
関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する加害責任も認めず、小池百合子都知事は追悼文さえ寄せていない。徴用工を「旧朝鮮半島出身労働者」と言い換えて、植民地支配と民族差別を隠蔽(いんぺい)している。
これらは戦時期だけの問題ではなく、朝鮮人を含む在日外国人を潜在的に「不逞(ふてい)」視する認識が温存されている。「多文化共生」などの理念を掲げるほど、実態との矛盾は深まるばかりである。
このような日本政府の態度は卑劣で公正さに反すると同時に、植民地支配の歴史を問う声が強まる世界の流れに反するものだ。
「1965年体制」の克服を
韓国では、非常戒厳に反対する闘いから尹錫悦大統領が辞任に追い込まれた。尹政権による「対日屈辱外交」の転換は不可避で、日本政府の態度が問われる。
「1965年体制」を民主主義的に克服することが重要になっている。日本国内では朝鮮学校への差別をやめさせることや、ヘイト行為との闘いが喫緊の課題である。
まずは、「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とした村山談話、日韓パートナーシップ宣言(98年)、日朝平壌宣言に立ち返ることだ。
その上で、加害者として植民地支配によって生じた朝鮮人の損害と苦痛に向き合い、被害者の尊厳回復のために必要なあらゆる措置を行わなければならない。植民地支配の事実の解明とその認定、謝罪と賠償、再発防止のための教育と記憶の継承が欠かせない。
さらに、日本と南北朝鮮による歴史認識に関する共同宣言を発表することを提案したい。
「1965年体制」の克服は、植民地支配の不法性を認めることから始めなければならない。そのことにより、日本は、発言力を高めている旧植民地諸国、グローバルサウスと共に生きていくことができる。
日本の反戦思想・反戦運動が、植民地支配の現実を直視して、より強いものになることを期待したい。
注 ①拉致問題は日本の最重要課題、②拉致問題の解決なしには国交正常化はない、③拉致被害者の全員帰国という3原則。
よしざわ・ふみとし
1969年、群馬県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。韓国湖南大学講師などを経て、2014年から新潟国際情報大学教授。専攻は朝鮮現代史、日朝関係史。「日韓会談文書・全面公開を求める会」共同代表。