インタビュー

関東大震災時の朝鮮人虐殺を風化させないーー矢野恭子・ほうせんか理事に聞く

 1923年9月1日の関東大震災発生直後から、朝鮮人・中国人へのリンチ・殺害が広範に行われました。東京を中心に関東地方全域に及び、犠牲者の数は数千人に及びます。

 前提として、1910年の日本による朝鮮(大韓帝国)の併合・植民地化があります。「三・一運動」に代表される独立運動は過酷な弾圧を受け、植民地政策の下で民衆は困窮化、1920年代に入ると就業・苦学の機会を求めて日本に渡る朝鮮人が増えました。

 大震災で、下町の墨田区は本所地域を中心に大火災が発生、避難民が荒川土手にあふれました。「朝鮮人が放火した」「毒が投げ込まれた」というデマが流れ、民間人や自警団、果ては警察や軍隊による朝鮮人への大規模な虐殺が行われました。旧四ツ木橋付近では、軍隊が機関銃を撃って殺害もしています。軍隊が朝鮮人を虐殺すると、避難民から「万歳」の声が上がったという証言もあります。死体を埋めるための穴掘りをさせられた近隣住民もいました。

 虐殺の事実は、多くの証言からも明らかです。ただ、無政府主義者の大杉栄らが殺害された甘粕事件、労組活動家が殺された亀戸事件と比べると、朝鮮人虐殺の実態はまだまだ明らかになっていません。

 他民族を支配すれば、抵抗は必ず起きます。こうした時代には、「普通」の人々も支配する国の一員であることから自由ではありません。その恐ろしさを感じないではいられません。

2026年の「関東大震災103周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」

丹念な調査で事実を明らかに

 1970年代になって、教材研究のため荒川放水路の開削工事を聞き書きしていた小学校教員の絹田幸恵さんが、旧四ツ木橋周辺のお年寄りから虐殺事件について聞きました。彼女は「当たり前のこととして、犠牲者を供養したい」という気持ちを持ち続け、話を聞いた人たちが1982年に「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(準)を結成しました。

 結成2カ月後の9月、旧四ツ木橋(現在の木根川橋)付近の荒川河川敷での試掘調査が行われました。最大5メートル以上試掘しましたが、残念ながら、遺骨の発見には至りませんでした。試掘地点は当時、葦の密生した低湿地と分かり、遺体を埋めた所はもっと堤防寄りと推定されました。

 会の発足直後にもかかわらず、試掘が許可されたことは意外でした。当時は「第一次教科書問題」が焦点化していました。文部省(当時)の教科書検定意見により、中国などアジアへの「侵略」が「進出」に書き換えられたと報じられ、外交問題に発展したものです。会発足直後の8月、「宮沢官房長官談話」が発表され、検定基準に「近隣諸国条項」が導入され、近隣諸国との歴史認識に配慮する方針が示されました。こうしたことが影響したのでしょう。

 その後、会では、85年までに延べ150人に対する聞き取り調査を行いました。聞くほどに、朝鮮人が殺された場所は増え続け、それでも遺骨は見つからないままです。また、韓国を訪れ、体験者・遺族などへの調査を4回にわたって行っています。

「民族の違いで排斥する心を戒めたい」

 1992年に『風よ鳳仙花の歌をはこべ』を発刊、併せて名称を「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」に改名しました。

 2009年に土手下の土地を取得して追悼碑と「ほうせんかの家」を建立しました。追悼碑の表面にはシンプルに「悼」の一文字を彫り、裏面には「多くの韓国・朝鮮人」が「日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって殺害された」と明記しています。追悼碑横のプレートには、当時の時代背景や建立の経緯を書き、「犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う」と締めています。

 2010年に(一社)ほうせんかを設立、1982年9月から毎年、追悼式を河川敷で開催しています。2021年には『風よ…』の増補新版を発刊しました。

 ほうせんかを名前にしたのは、1988年の追悼式で、在日のオモニ(お母さん)が鳳仙花の苗を河川敷に植えたことに由来します。異郷で殺された同胞に、故国の花を供えたいと持ってこられたのです。『鳳仙花』は、日本統治時代に生まれた朝鮮半島の歌曲です。日本統治下では歌うことが禁じられた歌で、冬が来ても春には必ず蘇生する鳳仙花に、三・一運動後の民族の願いが込められていると言われます。

 結成以降、多くの人々に支えられて活動を続けてきました。本当に感謝しています。

ほうせんかの家の横にある追悼碑

記事の調査などを進める

 私は大学時代、歴史サークルに参加していました。3年時、朝鮮語を学ぶ自主ゼミナールの人がサークルに「慰霊する会」(当時)の手伝いを誘いに来ました。サークルで日本史3年という立場は私しかおらず、「行かないといけないのかな」という意識で関わり始めました。

 「慰霊する会」の仮代表を務めてくださった立教大学の山田昭次先生は、文献資料班も率いてくださり、皆で国会図書館に通うなどで、大震災当時の新聞記事を集めました。

 当時の新聞には「武装の鮮人(ママ)帝都を暴れ廻る」など、おどろおどろしい見出しが躍っています。震災から2カ月後の11月半ば、官憲が少なくとも2度にわたって旧四ツ木橋の下手を掘り返し、遺骨を持ち去ったと新聞各紙が報じていました。亀戸事件の遺族が埋められた労働運動活動家を探しにきたところ、官憲に追い散らされた記事、日本人と言われて掘ったところ、すべて「鮮人ばかり」であったという人夫の証言報道も見つかりました。これらの資料は、「ほうせんかの家」に掲示されています。

平和を丁寧に考え伝えたい

 朝鮮人に対するヘイトや暴力、排外主義は、私たちが活動を始めた80年代にも「チマチョゴリ切り裂き」事件などがありました。

 大震災時の虐殺をめぐっても、2009年に事実をゆがめ、否定する『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(工藤美代子・著)が出版されました。

 最近のヘイトスピーチやヘイトデモ、ネット上の言動を見ると、ある意味で当時以上の、「人として言ってはならないこと」が公然と叫ばれています。「日本人ファースト」というスローガンもそうですが、社会の「底」が抜けてしまったと思います。

 日本の平和運動は、大きな役割を果たしてきたと思います。それでも、「平和や人権や差別を語る言葉」が「キレイゴト」と伝わってしまったり、「自分の生活がいっぱいいっぱい、転落するかもしれない。日本人を助けてくれよ」という気持ちとつながれなかったのかなと思い、いっそう丁寧に考え、伝えたいと思うようになりました。

「関東大震災103周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」

若者の行動に希望を感じる

 私たちの活動の原点は、絹田に朝鮮人虐殺の証言をした地域のお年寄り方が、「あの仏さんたち、よほど丁寧にお弔いしてあげないと浮かばれねえな」とか、「当時も後から花や線香が手向けられていたことがあったよ」と教えてくれたからです。

 現在でも、通りがかりに追悼碑の前で頭を下げる人がいます。ヤクルトやお酒を定期的にお供えしてくれる方もいます。草抜きしていると、声をかけてくださる方もいます。

 また、小池都知事が2017年以降、横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送らなくなったことをきっかけに、虐殺事件に関心をもつ学生や若い人が増え、例年の追悼式への参加者数が増えています。「本当は何があったのか」と、関心が集まったのだと思われます。加えて、近年の排外主義の高まりに対する危機感が背中を押している気がします。

 大震災・虐殺100周年を機に、若い人を中心に「ペンニョン=百年」がつくられ、フィールドワークなどを行っています。荒川河川敷以外の東京西部、神奈川県、千葉県、埼玉県などでも、新たな追悼の取り組みが行われるようになっています。

 悲観することばかりではないですね。

 朝鮮人虐殺は、過去の歴史ではあっても、決して風化させてはいけないことです。証言は記録するのもつらいものばかりですが、「遠く」の戦争の話ではなく、私たちの町で起きた事件だからです。事実を語り継ぐことが二度と繰り返さないための努力であり、これからを生きる日本と韓国・朝鮮の子どもたちへの贈り物だと考えています。(文責・編集部)

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