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石川一雄さんの死去に思う 闘いをやめるわけにはいかない(福岡県・北川和人)

 狭山事件の犯人として逮捕されて以来、62年間にわたって無実を訴えてきた石川一雄さんが3月11日に86歳で旅立ってしまった。最期まで再審の扉は開かれることはなかった。

 狭山事件は、1963年に埼玉県狭山市で起きた女子高生の殺人事件だ。当時、身代金を取りに来た犯人を取り逃がすなど、警察は捜査に行き詰まっていた。「容疑者は土地勘のある者」と見立てたことで、地域の集落も捜査に非協力的だった。そうした焦りから、警察は付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、何ら証拠のないまま石川一雄さんを別件逮捕した。周辺の集落の者も「犯人は被差別部落の者」という筋書きを歓迎した。

 石川さんは当時24歳。部落差別によって極貧の生活を強いられた。学校にもほとんど行けず、自分の名前さえ書けないほど無学だったという。弁護士よりも手練手管を弄(ろう)する警察を信用してしまい、また1カ月に及ぶ留置場生活と過酷な取り調べによって心が折られ、さらには「おまえの兄が犯人だ。捕まれば家族はどうなってしまうことか。おまえが代わりに罪を認めれば10年で出してやる」などと持ち掛けられ、言われるがままにうそ自白をしてしまった。

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 今から40年以上前、私は狭山の現地調査に参加したことがある。事件当時の石川さんの自宅も、犯行現場とされた雑木林もまだ現存していたころだ。自白調書では「被害者は雑木林内で悲鳴をあげ騒いだので、手で首を締めた」ことになっているのだが、雑木林から隣の畑まではわずか20メートルほどしかない。こんな所で白昼堂々と犯行するなど、どう考えてもおかしい。後に「悲鳴も人影もなかった」と隣人が証言した通りだ。

 今ほどの多くの新証拠も事件に関する証拠開示もなかった40年以上前の当時でさえ、警察・検察の主張は実際の状況のあまりの食い違いが多かった。当時は中学生だった私にも明白だった。さすがに怒りを通り越してあきれ返った。同時に、なぜこのような明白な冤罪(えんざい)がずっとまかり通っているのか、とても不思議に思った。

 そんな冤罪が、その後40年以上も晴らされず、ついに石川さんが亡くなるまでそのままにされるとは。今回の訃報に際して、昨年10月に袴田巌さんが再審によって無罪判決確定を勝ち取り、「次こそは石川さんの再審無罪を勝ち取る番だ」との機運が高まっていただけに、残念でならない。もちろん、石川さん自身が誰よりも無念だっただろう。保護観察も解かれず、選挙権もないまま、見えない手錠をかけられたまま亡くなってしまったという現実が残された。私自身も、解放運動を共に闘っている仲間たちも、力不足を痛感し、悔恨の念を禁じえなかった。言いようのない無力感にも包まれた。

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 石川さんの訃報を聞いた翌日、地元の教組の顔なじみの先生が、この闘争を終わらせてはいけないとの思いで緊急に集会の開催を決めたと、場所と時間の連絡が回ってきた。「誰も集まらないかもしれないが、一人からでも思いを語り合うことが大事だ」と力を込めていた。3日後には十数人の先生たちが集まってくれ、それぞれの思いを語り合った。私も教師ではないものの飛び入りで参加させてもらった。

 部落差別があるがゆえの、あまりにも不条理なこの冤罪に、教組などの労組をはじめ、多くの仲間がつながり合って長年共に闘ってきてくれたことが思い起こされた。同じ気持ちを持ち続けて駆け付けてくれた仲間の存在が、これほどまでにうれしく、そして勇気付けられるかけがえのないものだと、改めて気付かされた。

 一方、石川さんの死去が報じられてから1週間もたたぬうちに、まるでその死を待っていたかのように、検察の再審請求の審理打ち切り決定が報道された。

 人生そのものを奪い去られ、無実を求めて終生闘い続けた石川さんの尊厳を取り戻すため、そして冤罪の根底にある部落差別を決して許さないためにも、私たちは闘いをやめるわけにはいかない。志半ばで旅立ってしまった石川さんに少しでも報いたい。

 第4次の再審請求を闘い始めた石川さんの連れ合いの早智子さんをはじめ、私たちは今度こそ再審無罪を勝ち取るまで心ある仲間たちと共に断固として最後まで闘い続ける決意だ。

 石川さんは、獄中にいるときに死去してしまった両親の墓参りに、無実を勝ち取るまでは決して行かないと決めていたので、両親の墓前で手を合わせることがないままだった。私たちは石川さんの墓前で「冤罪を晴らすことができました」と報告して手を合わせることができるまで闘いたい。

石川一雄さん追悼集会

 石川一雄さんの追悼集会が4月16日、東京で行われた。部落解放同盟と狭山事件の再審を求める市民の会が主催、全国から1000人を超える人が参加した。

 開会前には短編映画「みえない手錠をはずすまでーー石川一雄さんを偲んで」(金聖雄監督作品)が上映され、石川さんの闘いの様子や人びととの交流、日常生活などがスクリーンに映し出された。

 小室等さんらによる追悼のうたの後、黙とうが行われた。

追悼の言葉を述べる西島藤彦委員長

 追悼のことばでは、最初に部落解放同盟の西島藤彦委員長が登壇し、「石川さんが最後まで大切にしていたバッグの中には多くの診察券と一枚の名刺があった。私の名刺だった。私たち解放同盟に思いを託したのだ。弁護団と同盟員の皆さん、勝利の報告を一日も早くと決意しよう」と呼びかけた。

 最後にあいさつした石川早智子さんは「一雄、無念だったね。86年の生涯のほとんどを冤罪を晴らすために使ってきたね。あなたの笑顔が大好きだったよ。今日はこんなに多くの人が来ている。空から見守ってほしい。一雄、今までありがとう」と語った。

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