石破政権は現在、政治・経済面で中国との関係改善を進めている一方、軍事面では引き続き「中国の脅威」を口実に沖縄・西日本で軍備増強を進めている。「戦後80年」でもある今年、日本は中国とどのような関係を築くべきなのか。沖縄出身で中国語を駆使し交流を推進している泉川友樹・日本国際貿易促進協会(国貿促)事務局長に聞いた。(文責編集部)

いずみかわ・ゆうき
1979年に沖縄県に生まれる。沖縄国際大学卒業後、北京外国語大学に留学。中国語講師などを経て、日本国際貿易促進協会に就職、現在は同協会理事・事務局長。これまでに習近平、李克強、温家宝ら中国要人との会談で通訳を務めた。2020年から沖縄大学地域研究所特別研究員。中国語検定1級、中国語通訳案内士。
私は中国との貿易・経済交流を促進する民間団体で働いています。日中間の経済交流を発展させることで東アジアの平和に寄与したいし、より根本にはうちなーんちゅ(沖縄人)として沖縄を平和な島にしたいという思いがあります。
中国語学び「アジア変えたい」
私が中国語を学び始めたのは1999年、沖縄国際大学2年生の時でした。小学生のころから横山光輝の漫画『三国志』を読むなどして中国の歴史に関心をもったことが直接的なきっかけですが、ほかにも理由があります。
私が多感な高校1年生だった95年、沖縄で少女が米海兵隊と海軍の兵士にレイプされる事件が起こりました。県民の怒りが爆発し、8万5000人が参加した県民大会が行われました。私は今は亡き母に「おまえもうちなーんちゅなら行け!」と言われ、母に連れていかれるように参加したのを今でも忘れることができません。
大会で当時の大田昌秀知事が「一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかった」と謝罪していたのをよく覚えています。沖縄には米軍基地があり、植民地的な扱いを受けている。こんなにたくさんの人が集まっても、県のトップが訴えても、基地の問題を解決できない現実。基地をなくしたい。そのためには、米軍駐留の大義名分となっている国際環境を変え、近隣国と良好な関係を、平和をつくらなければならない……大会に参加しながら、そんなことを考えていました。
中国語を学びアジアの平和に役立てたい。そういう思いがあったので、まだ初心者だったころから「中国語を学んで、いずれはアジアの歴史を塗り替えたい」などと周囲に豪語していました。
大学では真剣に中国語学習に取り組みました。私大の高い学費を払わせて親に申し訳ないとの思いもあったのですが、学内にいた中国からの留学生に影響を受けたのもあります。
かれらの多くは、中国で大学を出たり社会人を経て留学したりと、日本の学生よりずっと大人でした。また、中国も今ほど豊かではなく、皆アルバイトをして親に仕送りしながらも懸命に勉強していました。
当時は中国が世界貿易機関(WTO)に加盟する直前でした。今は亡き友人の留学生は「中国の会計制度は国際水準から遅れている。日本でしっかり会計制度を学び、WTOに加盟する中国に持ち帰り、経済発展を後押ししたい」との高い意識をもっていました。このような姿勢に刺激を受けました。
大学4年生だった2001年に中国語スピーチコンテストの沖縄大会に参加しました。交流の重要性を訴えるような定型的な話が多いなか、私は「私と中国語の関係は恋愛に似ている。私は中国語と運命的な出会いをして…」というような奇抜な話で中国語への情熱を訴えました。審査員にはウケていました。苦笑されていたのかもしれませんが。中国語圏での滞在経験のある参加者などと比べて私の実力は十分ではありませんでしたが、優勝することができました。
優勝の副賞は台湾研修旅行で、受け入れてくれたのは中国国民党の影響がある救国団でした。いちばん印象的だったのは、救国団所属の学生の日本語レベルの高さです。自分の実力のなさが恥ずかしくなり、中国語の勉強に一層熱が入るようになりました。
沖国大には台湾に東海大学という姉妹校があり、応募すれば留学できたと思いますが、私は応募しませんでした。大陸中国の方に強い関心があったからです。友人からは「日本語話者も多いというし、台湾の方が暮らしやすいのでは?」などと言われました。しかし、文化や制度など社会が違うからこそ面白いのだと思います。同じようなところに行ってもつまらない。違う世界に飛び込んで、自分たちとは何が違ってるのか、何が同じなのか、身をもって経験することこそが留学の醍醐味(だいごみ)だと思います。
北京留学、中国の奥深さ体感
大学を卒業しましたが、中国や中国語に関連した仕事を見つけることができず、アルバイトをしながら沖縄県国際交流・人材育成財団語学センターの夜間講座で中国語の勉強を続けていました。そうしていると、センターの中国人の先生から「沖縄県が行っている通訳者養成事業で北京外国語大学に留学できるプログラムがあるから応募してみてはどうか」と勧められました。それに受かり、03年の8月から留学生活が始まりました。
大学では、私を含めて4人の沖縄出身者を含む6人が「沖縄班」と呼ばれた特別クラスで授業を受けました。一流の先生方からつきっきりで翻訳、通訳、文法、会話を教わるという、とてもぜいたくな機会でした。この特別クラスは沖縄のセンターにいた北京出身の先生が「私が面倒を見る」と設置してくれたそうです。沖縄と中国の懸け橋となる人を育てることへの熱意を感じました。
04年の春節の休みには北京を離れてみました。夜行列車で寝ながら別の都市に行き、いろいろと見て夜にはまた夜行列車に乗り、ということを繰り返しながら他の地方を訪問しました。北京から西安、鄭州、合肥、杭州、南京、済南、太原と回って北京に戻る1週間ちょっとの旅でした。春節が終わったころでしたから、風呂敷包みのような大荷物を持った人でごった返し、列車の中は大変な状態でした。
それまでの私の交友関係は北京の中だけ、しかも日本に興味のある大学生が中心でしたから、旅先で偶然出会った人と仲良くなっての交流は新鮮でした。また、中国は歴史があり広いことを体感できました。同じ漢民族といっても、言葉も文化も違う。さらに少数民族もいる。中国は「世界の縮図」のようだと感じました。この旅の間、日本人であることを理由に不愉快な思いをさせられたことは一度もありませんでした。
1年の留学を終えて帰国する直前、以前本屋で親しくなった北京航空航天大学の先生が劇作家・余秋雨の『文化苦旅』という本をプレゼントしてくれました。中国各地を旅しながら中華文明について考察する内容なのですが、当時の私にはこれを読みこなす実力がありませんでした。それを伝えると、「勉強を続けていれば読めるようになる。あなたに中国語の勉強を続けてほしいからこの本を贈るんだ」と言われ、その思いに胸が熱くなりました。
1年間の留学を終えて04年8月に帰国しました。東京での1年間の通訳者養成学校での生活が始まるのですが、その前に沖縄に帰省しました。13日に母校・沖国大の恩師にあいさつに行く予定だったのですが、その日に米軍の輸送ヘリが大学の事務棟に墜落する事件が起きました。もう少し大学に着くのが早かったら私は事件の犠牲者となっていたかもしれません。やはり米軍基地は撤去しなければならない。その思いを新たにしました。
国貿促で新人通訳として奮闘
養成学校を出て中国語を使う仕事を探したのですが、当時の沖縄に安定して中国語を使うことができる仕事はほとんどなく、見つけることができませんでした。そのような中、「国貿促がスタッフを募集している」と聞いて応募し、勤めることになりました。06年4月のことです。
国貿促は中国とのビジネスをサポートする民間団体です。中国に対する幅広い知識や教養と同時に高度な中国語運用能力が求められます。勤めるようになってから、中国語だけでなく中国の政治・経済・社会・文化・歴史などを真剣に勉強するようになりました。
私が国貿促に入ったころは橋本龍太郎元首相が会長で、一度だけ橋本さんの通訳をしました。しかし橋本さんはその年の7月に亡くなり、9月に河野洋平衆議院議長(当時)が後継の会長となりました。私は勤めて1年未満の新人でしたが、河野会長を表敬訪問した中国の省長などとの会談で通訳する任務を与えられました。非常に責任の重い大役で緊張しました。当時の理事長は日本の敗戦後に中国東北部に残留して中国人に育てられた人で、中国語がネイティブ並み。その人が横につき、私が間違えると即座にダメ出しが入りました。そうやってビシバシ鍛えられました。
09年7月に衆議院が解散し、河野さんは衆議院議員を勇退しました。それまで河野さんが中国の政府要人と会談するときには、衆議院議長という公人だったため日本大使館から通訳官が派遣されていましたが、議員引退以降は派遣がなくなり、政府要人との会談でも私が通訳を務めることになりました。10年7月に初めて中南海(故宮の西側に隣接する共産党と政府の所在地)に足を踏み入れ、王岐山副首相(当時)と河野さんとの会談の通訳を行ったときには緊張で身がすくみました。その後、18年まで中国で国家要人との会談で通訳を担当し、その間に温家宝首相、習近平国家副主席、汪洋副首相、李克強首相(いずれも当時)との会談で通訳をしました。いずれも忘れ難く、貴重な財産です。
「沖縄と中国の懸け橋」模索
国貿促の職員として日中経済交流促進に携わりながらも、沖縄の平和に役立つことができないか、いろいろと模索していました。あの手この手を尽くして平和を追求することが琉球人のDNAだと勝手に思っています。
その一つとして、国貿促が派遣する訪中団に沖縄県からも参加しないかと働きかけました。それが13年4月の訪中団に当時の高良倉吉副知事が参加するきっかけとなりました。
当時、国貿促は沖縄県東京事務所の職員や観光業の人たちと沖縄に中国人観光客を呼び込むための勉強会を不定期に開いていました。何年か続けていたので、私は「もう議論だけじゃなくて実際に中国に行きましょう」と提案しました。当時は仲井眞弘多さんが県知事だったのですが、担当者からは「知事は、自分は参加できないが、ほかに都合のつく人がいれば参加すればいいと言っている」と告げられました。
そこで、私は副知事の参加を働きかけました。13年の4月に新たな副知事が就任することになっていたので、さまざまなルートで情報を集めると、琉球大学の高良倉吉教授が副知事になる予定だとわかりました。高良さんは中国とも関係の深い琉球史を専門としている歴史学者です。訪中に関心を示すのではないかと思い、知人を通じて事前に連絡を入れた上で、訪中の意義を伝える手紙を送りました。これが高良さんの訪中団参加につながりました。
ただ、残念ながら副知事の訪中は恒例とはならず、14年の4月訪中団には沖縄県庁からの参加はありませんでした。その後、12月の県知事選で翁長雄志さんが勝利しました。「アジア経済戦略構想」を掲げる翁長さんであれば訪中に関心を示すのではないかと思い、再び呼びかけてみることにしました。
そのころの新聞に、翁長さんが富川盛武元沖国大学学長にアジア経済戦略構想推進委員会の座長になってほしいと要請した、との記事が載っていました。富川さんは経済学部の教授だった人で、文学部出身の私は全く接点がなかったのですが、「沖国大卒業生」を強調し「アジア経済戦略構想には中国との連携は不可欠、ぜひ翁長さんに中国に行ってもらいたい。富川先生から翁長さんにお願いしてもらえないか」とメールで伝えたら、富川さんから「知事に伝えたら、知事も乗り気でした」というような返信をいただきました。これが15年4月の翁長さんの訪中を実現する力になりました。
当時は米軍基地問題をめぐって沖縄と政府の関係がギクシャクしており、翁長さんは12年12月に返り咲いた安倍首相と1度も会えていない状況でしたが、中国では李克強首相が面会に応じました。翁長さんの通訳は私が務めました。翁長さんは「沖縄と中国は琉球の時代から600年の交流の歴史がある」と歴史の具体例を挙げ、そのうえで「友好都市である那覇市と福建省福州市との間に直行便を飛ばしたい」と要望したのです。
それに対し李克強首相は「中国と琉球との間には600年の友好交流の歴史があるが、中国と日本との間にも2000年以上の友好交流の歴史がある。沖縄と福建だけでなく、中国のあらゆる都市と日本の都市が友好交流を深めることを中国の中央政府として支持する」と応じました。
これは中国側の配慮だったと思います。ここで沖縄だけを特別視するようなことを言えば、翁長さんも中国政府も日本から痛くもない腹を探られることになってしまうからです。一方で、翁長さんの要望した直行便についてはすぐに許可が下りました。言葉では沖縄を特別扱いしないと言いながら、実際の行動では沖縄の要望に真剣に対応した中国の外交の巧みさを実感しました。
翁長さんは18年8月にがんで亡くなりました。沖縄とアジアのあるべき姿について独自の視点を持ち、沖縄の平和と未来のために尽くした、本当に立派な政治家だったと思います。
高良さん、翁長さんの歩んだ道が引き継がれ、玉城デニーさんが知事になって以降は、スムーズに知事や副知事の訪中団参加が行われています。
23年に玉城さんが訪中した際には、沖縄県民が訪中のためにビザを取得する際、福岡にある中国総領事館まで行かなくてはいけなかったものを、指定旅行代理店を通じて取得できるようになりました。
このように、沖縄の地域外交、特に中国との交流は、少しずつ積み上げられてきています。ここに私なりに貢献できていることはうれしい限りですし、今後も努力していきたいと考えています。

日本に感じる偏見と傲慢さ
母に「うちなーんちゅなら…」と言われて県民大会に参加して以降、私のうちなーんちゅとしてのアイデンティティーは平和と結びついています。もとより、沖縄は琉球国の時代から中国をはじめ他国と友好的に付き合ってきました。小さな島です。地理的環境からも友好と平和以外の選択肢はあり得ません。
それは本来、日本全体にも言えることではないのでしょうか。現在、中国は世界第2位の、日本は世界第4位の経済大国です。隣国であり、経済的にもお互いになくてはならない存在です。その中国と戦争するなどという選択肢はあり得ません。よりよい関係を築くためにも、中国に向き合う姿勢を再考するべきではないでしょうか。
日本では、右左の立場を問わず、「中国の脅威」を前提であるかのように認識している人が多いと感じています。「海洋進出を強めている」「現状変更の試み」「権威主義国家」「ジェノサイド、強制労働」など、日本社会には「中国の脅威」をあおる言葉があふれています。しかしそれらはどれほど具体的な事実やデータ、あるいは史実に基づいているのでしょうか。私はプロパガンダと決め付けずに耳を傾けているつもりですが、どれも根拠が乏しいと感じています。誰かが発した真偽不明の情報をうのみにしてはいないでしょうか。
総じて言えば、中国側の方がずっと日本に近づこう、日本を正しく知ろう、日本と仲良くしようとする姿勢があると感じます。一方で日本には、中国をろくに知ろうともせず、「仲良くしたければおまえの方が近づいてこい」という、いささか傲慢(ごうまん)な姿勢が感じられます。
見方を変えれば、日本に関する教養や知識の豊かさは、外交上では中国の方によりアドバンテージがあるということでもあります。日本のマスコミはよく国に「対中国でしたたかな外交を」などと訴えています。しかし、正しく相手を知りもせずにしたたかな外交などできるのか、疑問です。
米国のトランプ政権再登場も手伝い、現在の日中関係は改善が顕著に進んでいます。この機会に日本は中国と向き合う姿勢を見つめ直すべきです。

歴史認識の共有を第一歩に
今年は「戦後80年」と言われています。アジア諸国からすれば「解放80年」です。この節目を今後の平和に生かし意味のあるものにするのであれば、まずそこに至った日本とアジアの歴史の事実、かつての日本の侵略と植民地支配をしっかりと学ぶ必要あるのではないでしょうか。
日本はかつて中国(清国)との戦争に勝利し台湾を奪い植民地としました。南シナ海全域の島々も占有し台湾の一部としました。これが現在の台湾問題や南シナ海の領有権問題の根源となっています。この歴史的経過を無視して日本がこれらの問題で中国に介入することは、中国の立場からすれば到底許せるものではありません。
また、沖縄の中に独立を求める声があるのは、かつての琉球国を日本が武力を背景に強制併合した史実と無関係ではありません。日本政府および日本の人びとがこれらに真摯(しんし)に向き合うことがよりよい未来を切りひらくためには不可欠です。
いま世界では欧米帝国主義による侵略と植民地支配の歴史を問い直す動きが盛んです。アジアやアフリカの国際紛争には、かつて列強による植民地時代に強いられた国境線や社会制度が原因となっているものが少なくありません。こうした歴史的責任を問い、欧米に謝罪と補償を求める声も高まっています。
日本に求められるのは、自国の歴史に正面から向き合い、中国などアジアの国々と歴史を共有し、信頼を得ることでしょう。相互信頼、相互尊重のもと、手を取り合いアジアの運命を自分たちで切りひらいていく。そのような新しいアジアを夢見て、私はこれからも努力していきます。
【関連記事】
・日中国交正常化/沖縄「本土復帰」 2つの50年から考える 沖縄で日中首脳会談の開催実現をーー泉川 友樹・沖縄大学地域研究所特別研究員(2022/1/1)