戦時中の1942年2月3日、山口県宇部市にある海底炭鉱・長生(ちょうせい)炭鉱で起こった水没事故により、朝鮮人坑夫136人を含む183人が犠牲となった。今年で事故から83年となるが、今も犠牲者の遺骨は放置されたままだ。事故の朝鮮人犠牲者は日本の植民地支配と強制連行・強制労働の犠牲者でもある。遺族は日本政府に遺骨の収集・返還を求めているが、政府は「困難」と決め込み不作為を続けている。地元出身のNさんと名古屋市在住で在日朝鮮人のHさんに、3日間の犠牲者追悼行事に参加して思ったことなどについて手記を寄せてもらった。

地元で事故を語り継いでほしい(宇部市出身・N)
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会(井上洋子、佐々木明美共同代表)は1月31日〜2月2日の3日間、犠牲者追悼集会や遺骨潜水調査を行った。「水非常」とは炭鉱用語で水没事故のことだ。私の地元で起きたこの事故について知りたいと思い、行事に合わせて20年ぶりに宇部に帰った。
私は長生炭鉱があった宇部市長生集落の隣の大沢で生まれ、高校卒業までそこで育った。小中学校には長生炭鉱の旧炭住(社宅)から通う同級生も多く、妹も後にそのうちの一人と結婚した。通学時には炭住や今回も目にしたピーヤ(炭坑の排気のために造られた円筒形の構造物)を見ながら帰ったものだ。自分が毎日のように眺めていた海の底に183人もの犠牲者が眠っているという事実を今なお現実感をもって受け入れられていない。
高校を卒業し、大阪の大学に入った1965年の暮れに日韓の国交が正常化されたのだが、大学では「日韓会談粉砕!」のデモで明け暮れていた。しかし、朝鮮人労働者がこれほど多く地元の炭鉱で犠牲となっていたことをずっと知らずに育ってきた。初めて知ったのは2010年以降のことで、詳しく知るようになったのは「刻む会」からメールが届くようになった最近のことだ。
事故当時、このことは市民にも伏せられ詳細は知らされていなかったということだ。私も含めた地元民が全く知らなかったのはそうしたことが理由なのかもしれない。しかしマスコミも大々的に報じている現在、もう知らないでは済まされない。今年は戦後80年でもある。これから宇部で育つ子どもたちには、地元で起こった事故を知ることから、日本と朝鮮半島の歴史について学んでほしい。
それにしても「刻む会」がなければ多くの人は知る由もなかったはずだ。初日に坑口ひろば前で知り合った女性に「私は地元出身なのに、この問題を知ったのはごく最近です。もちろん学校では何も教わらなかった」などと話すと、彼女は「私だって同じですよ。栃木県の足尾鉱毒事件の地元の生まれですが、田中正造の活動だって何も知らされなかった。このような歴史を国は隠すんですね」と言っていた。
今回、三日ともダイバーの伊左治佳孝さんによる遺骨潜水調査が行われた。1時間半以上の潜水中、東京の朝鮮大学校近くにある国平寺からきた尹碧巌住職が無事を祈願し続けた。参加者は海岸に行きピーヤに向けて献花したりした。
1日の追悼集会は、土砂降りと寒風に見舞われる中、追悼ひろばで1時間半行われた。韓国政府の代表も初めて参加した。
開会あいさつで井上洋子共同代表は「犠牲となった遺骨は83年間も放置されたままで、日本政府は『海底のため現時点では調査は困難、調査すらしない』と回答している。しかし昨年9月にはクラウドファンディングで集めた1200万円で地下4メートルの坑口を発見した。伊左治さんの協力で出てくる遺骨は必ず世論と政府を動かす力を持つと確信している」と、調査と遺骨収集に消極的な日本政府を批判した。
そして「今年は日韓正常化60周年を迎えるが、日本に捨て置かれている遺骨を放置したままの『未来志向』はあり得ない。犠牲者の遺骨が遺族に抱かれて故郷に帰る過程は、日本が過去に犯した植民地支配の過ちを明らかにし、歴史に刻んでいく道程でもある。私たちは犠牲者の尊厳を回復することを通して日本と朝鮮半島との信頼と友好に寄与するだけでなく、在日コリアンに対するヘイトの前に立ちはだかる防波堤の役割も築き上げていく」などと意義を語った。
続けて、来日した韓国遺族会や韓国政府代表、在日韓国民団と朝鮮総聯山口県本部代表が追悼の辞を述べた。また来日した韓国の若者と日本の若者が犠牲者の名前を読み上げた。ちなみに日本政府からは誰も参加しなかった。
今回は遺骨発見に至らなかったが、4月には日韓合同の遺骨潜水調査も準備されている。日本政府の対応、石破政権の態度がさらに問われるだろう。

遺骨収集は「行動する慰霊」実感(在日朝鮮人・H)
潜水調査初日の1月31日、Nさんと宇部市床波の長生炭坑の坑口ひろばで待ち合わせた。
かつての長生炭坑の坑口は事故後に埋め立て放置された。草木が茂り、場所を特定するのも大変だったらしい。坑口を掘り出すのには重機を必要とし、その掘り出した土砂を積み重ねて「ピーヤの見える丘」は造られたそうだ。
丘からはピーヤが2本海上に突き出ているのが見える。そのピーヤの近くか坑口から300メートルあたりに朝鮮人と日本人の犠牲者が事故当時のまま眠っている。違法操業の果ての「水非常」だった。
生存者も坑道脱出の際に仲間を見捨てたという罪悪感にさいなまれ苦しんだという。真っ暗な海底を必死に、すがりつく同僚を手で払いのけながら泳いだ。ピーヤの見える丘で「刻む会」のボランティアの人に教えてもらった。
翌2月1日、寒さに凍え雨に濡れながらの追悼式。日本国内から350人、韓国から100人が参加した。朝鮮総聯と韓国民団の代表がそろってあいさつしたことは、遺骨捜索・返還の要求が、政治的思想や思惑ではなく、「遺骨を家族のもとに帰したい」という素朴な願いに支えられていると感じた。
2月2日の午前には3回目の潜水調査が行われた。この日は瀬戸内海の温暖な気候そのままに暖かかった。坑道は視界10センチと最悪なため、ダイバーは水中を手探りですり抜けるようにして奥深くに進むそうだ。「刻む会」は、ダイバーの安全を最優先にしながらも、「ご遺骨を発見できなくても何か遺物か構造物を持ち帰ってほしい」とお願いしていた。ダイバーは期待に応えてドーナツ状の木製の輪などの構造物を持ち帰ってくれた。
沖縄で遺骨収集に取り組んでいる具志堅隆松さんは、長生炭坑のような遺骨に近づこうとする行為を「行動する慰霊」だと言われた。「刻む会」の活動はまさに慰霊だと感じた。
ところで、僕は朝鮮女子勤労挺身(ていしん)隊の問題に関わっている。朝鮮女子勤労挺身隊は戦時中、「女学校に通える」「働いて給料がもらえる」などとだまされて、名古屋の三菱重工道徳工場で強制労働させられた。名古屋高裁判決(確定判決)には「強制連行」「強制労働」と明記された。名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会は裁判闘争を続け、今は金曜行動として毎月第2金曜日に三菱重工本社(東京)で抗議行動している。
1月31日は、私たちの金曜行動を取材に来てくれる女性新聞記者に会った。3日間を一人で取材する頑張りようだ。2月1日には「支援する会」の会員1号である平山さんと会った。多くの在日の活動家にも会えた。2日にはフリーランスの記者にも会った。
闘う現場はつながっているなあと実感した3日間だった。
