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パレスチナ連帯 心打たれたベトナム人留学生の発言 「ここが私の故郷」と言えるときがくる(村木 俊)

 東京を中心に取り組まれている、パレスチナ連帯集会に出かけることがある。

 10月のイスラエル侵攻開始から9カ月近くが経過するのに、毎日のようにデモ(アピール行動)が続いている。

 とにかく若者が大部分で、留学生も目立つ。今まで学生運動に「無縁」と思われていた大学でも運動が起きているのは、留学生の影響が大きいからではないかと勝手に想像してもいる。

 某大学のデモで発言した女性は、祖父母が米国で黒人解放運動(公民権運動)を闘っていたことを紹介し、「その意志を継いで闘う」と述べていた。

 最近行われた街頭デモでは、都内の大学に通うベトナム人留学生が発言していた。

 彼女は、米国に対する民族解放運動とパレスチナ解放闘争の共通性を述べ、帝国主義に対する解放闘争の重要性と、それが必ず勝利するという「革命的楽観主義」を呼びかけた。私は大きな感動を覚えた。

 留学生の増加と交流は、日本の学生の意識に影響を与えているのだろう。それが、社会的・政治的行動を前進させる方向に進むことを願う。

 発言者から全文を入手できたので、紹介したい。


 私の名前はBopです。私はベトナム人学生として、1954年から75年までの21年間、米国によるベトナム戦争で直接被害を受けた家族を持つ者として、ベトナム民族解放戦線兵士の孫娘として、そして幸運にもベトナムの独立と米帝国主義からの解放を享受し、地図を指差して「ここがベトナム、ここが私の故郷」と言える者として、今日皆さんにお話しします。

 米国は世界最強の軍隊を持ち、最高の技術を持ち、最高の核兵器を持ち、最悪の兵器を持ち、イスラエルに資金提供することによって、今まさにベトナムでしたのと同じ犯罪を犯すことを可能にしています。ベトナムが植民地主義を克服し、フランスや米国からの独立を果たしたように、パレスチナもまた、シオニズムの大量虐殺政権から自らを解放し、自らの解放のための戦いに勝利するでしょう。

 まず、ベトナム戦争について学ぶとき、私たちは大量虐殺、地域全体への絨毯(じゅうたん)爆撃、野原やジャングルそして強制収容所でのダイオキシンによる化学中毒を目にします。体にひどい火傷を負い、爆撃から逃げ惑う子どもたちや、枯葉剤に触れて形態異常になった親たちを目にします。

 今、インターネットを見ると、病院や学校、路上でパレスチナ市民が虐殺されています。手足をギプスで固定され、両手を縛られ、衣服をはぎ取られた何百人ものパレスチナ人患者の集団墓地を目にします。彼らがどのように殺害されたかは誰にもわかりませんが、想像することはできます。イスラエルが、避難したパレスチナの子どもたちを収容していたガザの学校を爆撃したとき、私たちはビニール袋に包まれた子どもたちの遺体や、瓦礫(がれき)の中から引きずり出され、傷つき、血まみれで、生気のない子どもたちの遺体を目にします。イスラエル国防軍がガザの家や道路に爆弾を落とすと、私たちは母親や父親、兄弟の遺体のそばで泣き叫ぶパレスチナの子どもたちを目にします。靴も履かず、穴だらけのTシャツを着たパレスチナの男たちが、焼かれ、バラバラになった遺体を布切れに包んで運び、列に並べるのを目にします。イスラエル軍が不法に収容した強制収容所のパレスチナ人囚人の映像が流出したとき、私たちはパレスチナ人が目隠しをされ、服を剥ぎ取られ、小さな部屋に列を作って座らされているのを目にします。そこには彼らが金属棒を肛門に無理やり押し込まれ、その金属棒に電気を流し、感電してレイプされたことも書いてありました。

 世界がベトナムのニュースや映像に憤慨したとき、米国は国民にプロパガンダを流し、ベトナムの抵抗組織を「テロリスト」と呼び、爆撃を自己防衛だとして正当化しました。聞き覚えがありますか? そうです。今、イスラエルと米国は、堕落したメディアのおかげで、同じウソを垂れ流しています。「合法的に殺された子ども」が存在すると言い、4人のイスラエル人の人質を救うために200人のパレスチナ人が殺されたと言います。イスラエルと米国は、パレスチナ人の非人間化を進め、「反ユダヤ主義だ」と的はずれな非難をすることで、現在進行中のパレスチナ人の大量虐殺から目をそらさせようと、あらゆる手を尽くしています。ベトナムの抵抗組織、ベトコン(注)が自分たちの故郷を守ったことを非難する人がここにいるでしょうか? かつて南アフリカのアパルトヘイトと闘った故ネルソン・マンデラ(大統領)に「国内テロリスト」のレッテルを貼ったことを、今でも非難しない人がここにいるでしょうか?

 第二に、故ホー・チ・ミン(ベトナム労働党主席)について、そして彼がベトナム国民を率いてフランスや米国の植民地主義者に勝利した方法について学んだとき、彼の言葉を読みました。「国を失ったり奴隷制度に戻ったりするくらいなら、私たちはすべてを犠牲にするでしょう。性別や年齢、信仰や政治的信条に関係なく、私たちベトナム人は、植民地主義と闘い、祖国を取り戻すために立ち上がらなければなりせん。ライフルを持つ者はライフルを使う。剣を持つ者は剣を使う。何も持たない者は石や棒を使う。誰もが植民地主義者に立ち向かい、祖国を救わねばなりません」。

 こんにちに至るまで、ホー・チ・ミンは革命的楽観主義と呼ばれるものを私たちに教えてくれています。それは、私たちが、世界で最も強力な政権と闘うときですらも、心に希望と解放を抱いて闘い、その決意を胸に、持てるものすべてをかけて闘うということです。

 こんにち、パレスチナの人々が日々経験している残虐行為について読むと、打ちのめされるような気持ちになりますが、それでも希望を感じるのは、彼らの回復力と革命的な楽観主義を目の当たりにしているからです。

 パレスチナの子どもがイスラエルのドローンを石で撃ち落とすとき。パレスチナ人男性が、爆撃のなか病院を再建するために集まっているとき。パレスチナの人々が、トラウマを抱えた子供たちを楽しませるために、ピエロの格好をして踊るとき。ラマダン(断食月)の間、夜の礼拝を行うために破壊されたモスクの瓦礫を片付ける毎日を過ごすとき。パン屋が爆撃を受けた後も、ガザの避難民の子どもたちの誕生日を祝うためにケーキを焼き続け、子どもたちに希望をもたらし、苦痛や飢えからのつかの間の解放を与えるとき。ある画家が、ガザの子どもや女性のために、破れたテントの下で自分たちの家を描くワークショップを開催するとき。どんな困難があろうとも、パレスチナの人々はいのちにしがみつき、踊り、微笑み、絵を描き、歌い、料理し、祈る。イスラエルや米国の最先端のAI(人工知能)兵器でさえも、彼らの精神を打ち砕くことはできません。パレスチナ人はいのちを愛し、それが彼らが無敵な所以なのです。

 最後になりましたが、ベトナム戦争について学んだとき、私は米国全土に広がった学生たちの抗議と集会が、政府に対する戦争終結へのプレッシャーをかけていたことを知りました。ケント州立大学では1970年、大学と米国の軍需産業との関係に抗議していた4人の学生が州兵に殺され、68年4月の学生デモでは、コロンビア大学の経営陣が学生を逮捕するために警察を呼び、700人以上が拘束されました。こうした学生たちと彼らの闘いは、ベトナムの解放に大きな役割を果たしました。

 今、パレスチナ解放のために、世界中で学生たちの抗議行動がさらに活発化しています。70年代に米国のキャンパスで起こった学生たちのように、私たちは、私たちの通う大学がイスラエルの大量虐殺政権との関係を断ち切り、手を引くまで、シオニズムの崩壊を見るまで、そして、自由なパレスチナを手に入れるまで、決して立ち止まりません。60年前、戦争が終わったとき、ベトナムは戦争で荒廃し、国土は焼け野原になり、母親や父親不在の家庭が増え、人々は戦争のトラウマを抱えて帰国しました。

 しかしこんにちベトナムに行けば、抑圧された過去から独立し、独自の言語、食べ物、文化を自由に謳歌(おうか)し、独自の国民性を持つ美しい国を目にすることができます。

 私はベトナム人として、植民地主義者と闘うために立ち上がった人々、抵抗した人々、逮捕された人々、政府に対して声を上げた人々に、永遠に感謝します。ガザの人々の回復力と革命的楽観主義、そして私たち全員が最大限できることを行い、抑圧され植民地化された人々のために闘うことで、私たちは、生きているうちに解放されたパレスチナを見ることができるでしょう。自国の文化を讃え、所有する自由を持つパレスチナ、イスラエルの非人道的な占領から切り離されたアイデンティティを持つパレスチナ。私たちはパレスチナの子どもたちが誇らしげに地図を指さし、世界に向けて「ここはパレスチナ、私の故郷はここ」と言う姿を見ることができるでしょう。(了)

(掲載にあたり若干の校正を行ったが、内容は原文のまま)

(注)ベトコン 元来は「南ベトナム共産党」のこと。当時の日米報道機関は、統一戦線組織「ベトナム民族解放戦線」に対するべっ称として使用した。ここでは発言のまま記載した。

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