私はこの8月、自主・平和・民主のための広範な国民連合の呼びかけで結成された「アジアの平和と未来をひらく若者訪中団」に1歳3カ月の息子を連れて参加し、中国の首都・北京市と黒竜江省・ハルビン市を訪れました。
子どもを抱えて中国各地を訪れたことで、日本による民間人への加害の歴史がより自分ごととして感じられ、戦争の恐ろしさをより重く実感しました。ですが「日本は過去にひどいことをした」「戦争は恐ろしい」という感想だけで終わらせてはならないと出発前から心に決めていました。いま日本や米国が着々と戦争準備を進めている現状があるからこそ、これからの戦争を防ぐためにどうするべきか。それを考える旅にするつもりでした。
「戦争がなぜ起きるのか」「一般人がどのようにして戦争のシステムに巻き込まれていくのか」という問いを立てて今回の旅に臨みました。その視点から感じたことを記します。
侵略のシステムの中で
北京滞在中に訪れた清華大学では、占領された地がいかに侵略者の都合でつくり替えられるのかを痛感しました。
当時、同大学は日本陸軍に接収され、図書館は医療拠点として利用されました。驚いたのは花岡事件とのつながり。秋田県で強制労働を強いられていた中国人たちが集団蜂起し日本軍に虐殺された事件です。労働者たちの多くは日本に連行される前に同大学で身体検査を受けていました。
強制労働という言葉からは、労働現場や拉致の場面ばかりを想像しがちですが、実際には移送や検査、管理、衣食の提供など、多様な仕事や仕組みが連動して成り立っています。同大学がそのプロセスに組み込まれていたことを学ぶことで、占領がいかに社会の隅々まで浸透するのであるかを思い知らされました。
ハルビンでは、東北烈士紀念館を訪れました。ここは偽満州国時代に特別警察庁だった建物で、共産主義者や反体制活動家が法的手続きなく逮捕・拷問され、命を奪われた場所です。一方、同じ建物の別の階は行政機能を担っており、身分証明書や紙幣も発行されていました。そこに関わった職員たちは、警察のように直接暴力を振るうことはなかったかもしれません。しかし統治システムに加担することで、彼らもまた暴力の一部を担っていました。入植者としてよりよい暮らしを求めただけの「普通の人」が結果的に現地の人の苦しみに加担していた構造がここでも見られました。
今回最も印象に残った訪問先はハルビンにある第731部隊罪証陳列館でした。北京の中国人民抗日戦争紀念館では、当時の悲劇的な状況を写した写真が数多く展示されており、生首やけがを負った子どもの姿に目を背けたくなる瞬間も多くありました。それに対し、731部隊の展示は一見すると整然としていました。終戦直前に部隊が証拠隠滅を図り、当時行われていた残虐な実験の写真がほとんど残っていないためですが、証言ビデオや資料だけでも恐ろしい内容で、写真など見るまでもなく吐き気がして、途中から涙が止まらなくなりました。
なかでも衝撃を受けたのは、当時の研究書です。以前は「人体実験を行うのは悪魔のような人間に違いない」と思っていましたが、感染症の広がりや凍傷の進行を几帳面な筆跡と美しい図で記した記録を見て、彼らが純粋に「科学」をしていたのだと気付かされました。彼らも与えられた仕事を淡々とこなす人間、あるいは自分が正しいと思うことに励む人間だったのでしょう。その一方で、被験者を「マルタ」と呼び、人間ではなく観察対象として扱ってもいました。そこまで人を人として見えなくさせるファシズムとレイシズムこそが何よりも恐ろしいと思いました。研究員の多くは若く軍内では下の立場で、出世のために「成果」が奨励された構造が加害を推進させたのでしょう。

一方、被検体とされた人は、いわゆる思想犯やスパイ容疑で捕らえられていたことが少なくなかったと知りました。彼らは日本帝国主義に抗い、民族解放を掲げて命がけで闘っていた人でした。
私自身、共産主義や反帝国主義に賛同しますが、もし自分が同じ状況に置かれたら同じ覚悟を持てるだろうかと考えると、背筋が凍る思いがしました。ファシズムとキャリア主義に飲み込まれた日本人研究者と、闘うことを選び、捕らえられ、実験材料にされた人との対比はあまりに鮮烈でした。後者がどれだけの苦しみを強いられたかと思うと涙が止まりませんでした。
なぜ戦争責任は曖昧に?
私ごとですが、祖父は20歳前後で偽満州国に送り込まれ、満鉄の架線工事に携わったそうです。今回ハルビンに行くと話した際、父がそのことを思い出し、「父ちゃんが 歳の時に戦火が上がり始めた」と言いました。その何げない言葉が頭に残りました。戦争は誰かが「起こす」ものではなく、自然災害のように「起きる」もの。確かに、田舎育ちで、比較的貧しく、当時まだ若かった祖父の感覚はそれぐらいだったのでしょう。しかし、こんにちにおいても、誰が何のためにあの戦争を起こしたのか、それが多くの日本人のなかで曖昧であると改めて気付かされました。
この曖昧さは日米の支配層にとって都合がいいものです。米国は戦後、ソ連など共産主義陣営との対抗上、日本を反共の砦(とりで)とするために、戦犯免責や公職追放の緩和、再軍備化を進めました。大日本帝国の体制は基本的に温存されました。このようにして、日本の戦争責任は曖昧にされたまま、現在に至っています。
当時、世界を支配していた欧米と渡り合うために、日本も帝国となり、植民地を持ち、資源や労働力を強奪してまで自らの資本を拡大させる「必要」があったとされています。しかし、それによって起きる戦争は決して人民のためのものではなく、あくまで軍国主義者とそれを突き動かす「資本」のための戦争でした。
資本を限りなく拡大し続けることを最重要課題とする資本主義は、新たな土地、新たな資源、新たな労働力を求めてあらゆるものを侵食し続けます。
かつて一握りの資本家が私腹を肥やすために、多くの人民が侵略者となって命を奪い、奪われたのと同じように、現代を生きる私たち労働者もまた、誰かの資本を増やすために日々働かされています。過去と現代が地続きであるからこそ、支配層は人びとの階級意識が芽生えることを恐れ、歴史認識を曖昧なままにしている面があるのではないでしょうか。免罪された戦犯らが戦後も日本を率いてきたなかで、「誰が戦争を起こしたのか」など言えるはずもありません。

一方、中国の歴史観は明瞭でした。抗日戦争紀念館の入り口には「民族解放と世界平和のために」というスローガンが大きく掲げられていました。侵略・略奪・統治に対し、人民が立ち上がり、自らの自由と平和を闘い取りました。「日本人」と「中国人」のいがみ合い戦争ではなく、「抑圧者」と「人民」という構造における闘いであったという歴史認識が、今回お会いしたすべての中国人の言葉からも感じられました。
清華大学の劉江永先生は「抗日戦争の勝利は、中国人民だけでなく、日本人民の勝利でもあり、平和を愛するすべての人民の勝利である」と語っていました。これは共産主義の「国境を超えた人民の連帯」という思想に基づく言葉です。それは日中国交正常化において中国が日本への賠償請求を放棄したことにも一貫していると思います。

「平和」だけでは不十分
私たちは日本人として、中国が歴史的に示してきた誠実さや信頼に応える責任があります。それは、過去を学び反省することもですが、何より次なる戦争を起こさせないことで果たされるべき責任です。いま「台湾有事」や「中国脅威論」をあおる論調がグローバルノースで拡大しています。日本は米国と一体となって軍事強化を進め、東アジアの緊張を高め、再び戦争への道を歩もうとしています。それにNOを言うには理想論、観念論的な平和主義だけでは不十分です。
米帝国主義こそが、戦後の数々の紛争や内政干渉を引き起こし、暴力と略奪、抑圧によって一握りの資本家の富を膨らませてきました。これとは対照的に中国は、侵略や植民地支配に頼らず、自主・独立を守り、貧困撲滅や気候変動にも対応しながら、着実に発展してきました。
この中国を、米帝は脅威に感じています。中国を抑え込むという「米国の都合」の戦争に日本や韓国、フィリピンなどが巻き込まれようとしています。この現実に日本人民は目を覚まさなければなりません。
そして、際限なく拡大し続け、全てのものを貪り食う資本が主導する限り、本当の意味での平和は訪れません。そういう意味では、「平和を愛する人民」とは「資本主義からの脱却を願う労働者」と同義と言ってもいいと私は思います。
今回の訪中団に参加して、私は「日中不再戦」と「資本主義からの脱却」に向けた決意をこれまで以上に強くしました。息子をかつての祖父のような「無意識の加害者」にも、戦争の被害者にもさせないため、一生をかけて闘います!
私は9月からは中国語の学校に通い始めました。日中友好に貢献し、中国の社会主義に学ぶためにも、一日でも早く中国語を身につけようという強い目的意識を持って勉強しています。また、12月には南京への訪中団が企画されているので、積極的に携わりたいです。全国の同志とともに闘います!(MN)