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「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」炭鉱坑口、82年ぶりに開く

 山口県宇部市にあった海底炭鉱「長生(ちょうせい)炭鉱」で戦時中の1942年に起きた水没事故(水非常)で、朝鮮半島からの強制動員あるいは日本への渡航を余儀なくされた朝鮮人136人と日本人47人の労働者が生き埋めになった。朝鮮人労働者が多かったことから「朝鮮炭鉱」と呼ばれたという長生炭鉱だが、39年から事故までに朝鮮半島から動員された労働者は1258人に上るという。水没以来、遺骨は海底に眠ったままだ。

「刻む会」東京で記者会見

報告する井上洋子さん(左)と遺族の鄭歩美(チョン・ボミ)さん(11月6日、東京)

 「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の井上洋子・共同代表は11月6日、対厚労省交渉の後、国会で記者会見を開いた。この前日、福岡新厚労相は記者会見で、坑道が水没し安全性が確認できていないことや遺骨の所在が判明していない点を指摘、「実地調査の範囲を超えている」と述べ、国による調査や市民団体への協力は現時点で考えていないと述べていた。

 井上さんは交渉で、①厚労省人道調査室は徴用工の遺骨返還に年間1000万円を超える予算を確保しているが、使っているのは4~5万円に過ぎない、②新政権はその予算を長生炭鉱の事業に使ってほしい、③厚労相は現地に足を運んで、市民の取り組みを自身の目で見てほしい、などと求めたと報告した。

 また、「坑口を開けたので、今までとはやや違って真摯(しんし)に受け止めてもらった」と述べ、敗戦後80年を迎える来年1月末からの2回目の潜水調査への期待を語った。

 「刻む会」の前身は1991年に、「犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立」「ピーヤの保存」「証言・資料の収集と編纂(へんさん)」を目的に設立された。翌年以降、毎年事故の日付に合わせて韓国から犠牲者の遺族を招いた追悼集会を開催しており、証言・資料集も刊行、2013年には追悼碑を建立した。

 「刻む会」は昨年12月にも遺族と共に厚労省人道調査室と交渉したが、「遺骨がどこにあるかわからないので動けない」というので、自分たちで坑口を開ける決意をした。最終目標は、海の底に沈む遺骨を掘り起こし、遺族の元へ返すことだという。

 今年に入ってクラウドファンディングやカンパなど1200万円超が寄せられ、それらを資金に運動が急速に進み、7月15日「坑口を開けるぞ!スタート集会」、9月19日から工事を始め25日に坑口が開いた。10月26日に「坑口開けたぞ!82年の闇に光を入れる」集会を開き、日韓の遺族をはじめ250人が参加、10月29・30日に1回目の潜水調査が行われた。さらに準備を整え、来年1月31日~2月2日に2回目の調査を予定している。

沖合のピーヤから潜水調査に向かうダイバー(10月29日、宇部市床波海岸)

編集部より

 私は敗戦後の1946年、宇部市の東側にある西岐波区大沢で生まれ、65年に高校を卒業するまでそこで過ごした。隣が長生炭鉱のあった長生集落で、当時はかつての炭住と思われる住居に小中学校の同期生が住んでいて、一緒に遊んだものだ。

 今でも残るピーヤという炭鉱の排気・排水孔はしょっちゅう目にしていたし、入り口から20メートルくらいまで海水が迫るかつての坑道口と思われる場所にも何度か行った。しかし炭鉱が水没したことは知っていたが、そこで多数の朝鮮人労働者が亡くなったことなど聞いたこともなかった。

 私が「長生炭鉱の水非常」について初めて聞いたのは、2010年代に入って自主・平和・民主のための広範な国民連合全国総会の場だった。それから十数年、「刻む会」からのメールが届くようになって改めて注目し始めた。(N)

長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会

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