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私は「透明人間」にならないーー崎浜空音さん(慶応大学3年生)

 崎浜空音さん(慶応大学3年生)は、昨年12月に沖縄市で行われた米兵による女性暴行事件に抗議する県民大会で若者を代表して登壇し、今年1月には東京で事件に抗議の意を示すサイレント・スタンディングを呼びかけるなど、行動を続けている。崎浜さんに思いを聞いた。(文責編集部)

 私は沖縄本島中部にある北谷町出身です。嘉手納基地など4つの米軍関連施設が町面積の50%以上を占める「基地の町」で、爆音で学校の授業が中断されたり、隣人が米軍関係者だったりということが当たり前でした。

 私が中学2年生だった2016年、米軍関係者がうるま市在住の20歳の女性をレイプして殺害、遺体を山林に遺棄する事件が起きました。当時の私はその事件の重大さを理解していませんでしたが、新聞などが連日のように大々的に報道しているのを見て大変な事件が起きたことは分かりました。2度開かれた県民大会に両親について参加したのですが、大勢の人が集まり怒っているのを見て、私はこのことについてもっと知らなければいけないと思いました。

 両親は自らの意見は言わず、「自分で調べて自分の意見を持ちなさい」という姿勢でしたので、私は一人で本を読むなどして勉強し始めました。そうした中で、沖縄の米軍基地をめぐる事件や事故、日米地位協定の問題、日米合同委員会の存在などについて知りました。

何をするべきか、仏で自問

 高校2年生だった19年の8月からフランスに留学しました。当時の私は、将来は発展途上国などで貧しい人などを助ける仕事がしたいと考え、語学の学習に力を入れていました。

 キラキラしたイメージをもって留学したフランスでは、ストライキやデモが頻繁に行われていました。当時は黄色いベスト運動が落ち着き始めたころですが、マクロン政権の年金改革に反対するストでバスはしょっちゅう止まっていました。スト権のない日本と違い、高校の先生も当たり前のようにストを行っていました。大人だけでなく、私と同じ高校の同級生たちもデモをし、高校の前で火を燃やしたりして、バカロレアという高校卒業資格と大学入学資格を取得するための試験の改革に反対していました。

 このころは日本でも、センター試験に英語のスピーキングを導入する改革などが問題視されていましたが、デモやストが行われたというのは少なくとも私は聞いたことがありません。フランスの人たちの行動に心を動かされながらも、日本との違いについて考えさせられました。

 また、いわゆるホームレスの方々も数多く見かけました。私はフランス西部のナントの近郊にホームステイしていて、歴史的な建物や美しい街並みに魅了されました。しかし、人びとが笑顔で食事を楽しむレストランのすぐ外で路上生活者がお金や食べ物を求めて座り込む…そんな対照的な光景を毎日のように目にしながら、自分は何もしなくていいのかと自問自答を繰り返していました。

勉強だけでは変わらない

 ちょうどそのころ、お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの漫才をネットで見ました。漫才なので多くの人は笑いながら見るのでしょう。しかし私は泣きながら見ていました。

 ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんは社会問題を取り上げた漫才に定評がある人です。彼は関西電力大飯原発のある福井県おおい町出身で、大阪などへの電力供給のために危険な原発が福井県に集中的に押し付けられていることに矛盾を感じていたそうです。

 漫才で彼は、その年の2月に行われた辺野古新基地建設をめぐる県民投票で示された建設反対の民意が国に黙殺されていること、また朝鮮学校への高校無償化の適用を求める生徒や関係者の声が国に無視され続けていること、さらにその秋の台風の際に東京都台東区の避難所がホームレスの受け入れを拒否したことなどを挙げ、「みんなの中に透明人間にされている人がいる。透明人間の言葉は誰にも聞かれていない」などと話していました。

 「私たち沖縄県民は透明人間にされている」。あからさまに現実を突き付けられ、くやしさと情けなさで涙を抑えることができませんでした。

 中2のときに県民大会に参加してから、私なりに勉強してきました。県民投票で民意が示されも、当時の安倍政権は「真摯(しんし)に受け止める」などと受け流し、基地建設を続けました。米軍・米軍人による事件・事故が起こるたび、米軍や日本政府は「綱紀粛正」「地位協定の運用改善」などと言う一方、地位協定は1ミリも改正されず、軍事植民地のような沖縄の状況は全く変わっていません。当然それらのことは知っていました。

 にもかかわらず、当時の私はひとごとのように「誰かがいつか変えてくれるだろう」と思っていました。でも、誰かとは誰なのか。いつかとはいつなのか。私のような当事者が声を上げなければ、県民は透明人間にされたままなのではないか。うるま市で起きたような事件は起き続け、県民はいつまでも米軍・米兵におびえる生活を強いられるのではないか。発展途上国で貧しい人を助ける仕事も大事でしょう。しかし私が取り組むべきことは、目の前にある沖縄の基地問題だ。私はそう決めました。

崎浜さんが呼びかけ、東京・新宿駅で行われたサイレント・デモ参加者の皆さん

私も誰かの支えになれる

 それから、私は小さな「実践」をしました。勇気を出して、ホームレスの人たちに、自分からあいさつする。それは「私はあなたたちをいないことにしない、あなたたちは一人ではない」という思いを伝えるためです。毎日、笑顔であいさつし続けました。

 しばらくして、私がいつものようにあいさつすると、あるホームレスの人が「こんにちは、お嬢さん、ありがとう」と笑顔で応えてくれました。「ありがとう」と謝意を伝えられたのは初めてでした。「私でも誰かの支えになれる」…そう思うと心が熱くなり、涙が止まりませんでした。

 日本に帰国し高校に復学してから、私は生徒会長をやりました。学校には不条理なことがたくさんありますが、そうした目の前の問題にこそ向き合おうと思ったからです。全校生徒にアンケートをとり、ジェンダーごとに決められた制服の一部自由化を求めたり、生徒の不利益になるカリキュラム改定に反対したりしました。学校側・先生たちと交渉するなど、とんでもなく時間と労力を使いました。それでも、校則改定など成果を上げられたこともあったし、何より悩んだり嫌な思いをしたりしている仲間に「一人じゃないよ」と少しでも寄り添うことができたと思います。

 大学入学を機に上京しました。「東京で沖縄の基地問題を訴える」という目的意識を持って進学を決めました。ただ、最初の1年はどこで何をしたらよいか分からず、とりあえず講演会などがあれば足を運んで人に会うということを続けていました。

 しかし、そうした中でできた縁で、昨年1月に京都・龍谷大学で、11月に東京・法政大学で行われた玉城デニー沖縄県知事のトークキャラバンで「パネリストとして発言してほしい」と声をかけてもらいました。さらには12月の県民大会でも登壇する機会をもらいました。

 将来は沖縄で弁護士として活動したいと考えています。ただどういう形であれ、大好きな沖縄のための取り組みを続けたいと思っています。

基地に分断された私の町

 地元のことを知りたいと町史を調べるうち、現在の北谷町と嘉手納町は以前は一つの村だったことを知りました。資料によると、戦後に当時の北谷村の真ん中に嘉手納基地が建設されましたが、当初は自由に往来できたとのこと。しかし1948年5月から基地への立ち入りが禁止されたため、嘉手納地区の住民や役場職員は北谷村役場まで来るのに4〜5時間も基地に沿って回り道しなければならなくなりました。著しく不便になったため、同年11月に村議会で嘉手納地区の分村が決まりまったそうです。

 これを知った私は、2024年11月に友人と二人で嘉手納基地の周りを実際に歩いてみました。上の写真はGPSの記録なのですが、1周が18キロ弱で、歩くのに4時間以上がかかりました。道路も履物も今より悪かったことを考えると、当時の嘉手納地区の住民が役場まで往復することがいかに大変だったかに思いをはせることができました。

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