政府・支配層は「中国脅威論」を振りまき、対米従属の政治軍事大国化の道を正当化している。「台湾有事」があおられていることは、その典型である。
5月末には頼・台湾「総統」の就任式が行われ、30人以上の国会議員が参加した。「台湾は世界が認める国家」と発言した中山・石垣市長の発言は典型例だが、米日両政府は、台湾を「一つの国」のように扱う策動を強めている。マスコミはもちろん、ほとんどの議会内野党も同様である。
わが党は、こうした行動は中国への内政干渉であり、直ちにやめるべきだと主張する。
台湾問題を考える際、台湾が日本の植民地であったことや、日中共同声明に「中国の一部」と明記されていること、共同声明を含む「4つの政治文書」の存在を欠かすことはできない。
台湾問題についてシリーズで解説する。第1回目として、台湾の歴史について再確認したい。
・日本は日清戦争で中国から台湾を奪い植民地化した。
・米軍の介入によって、中国・台湾は分断された。
・日本は歴史を反省し、台湾問題に干渉してはならない。
日清戦争で台湾を奪った
台湾島の存在は古くから中国大陸で知られていた。17世紀前半、オランダなど西洋諸国が貿易拠点として開発を進めた。
1644年、女真族による清王朝が北京に入城し、中国大陸を制した。1661年、清朝への抵抗を続けていた鄭成功ら明(旧王朝)の支持者が台湾に移動、オランダ勢力を追放して支配した(鄭氏政権)。鄭氏政権は1683年に降伏、以降、台湾は清朝の支配下に入った。
日本と清朝は1894年、李氏朝鮮への支配権をめぐって「日清戦争」を戦った。日本によるアジア侵略戦争が、本格的に始まった。戦争の結果、1895年の下関条約で、日本は清朝から台湾と澎湖諸島を奪った。
だが、日本軍による台湾「平定」は容易ではなかった。清軍の一部と住民による義勇兵が激しく抵抗、日本は軍隊の増派に追い込まれた。「台湾総督府」は、1万人以上を虐殺して「平定宣言」を出した(乙未[いつび]戦争)。
日本は、清朝から多額の賠償金を強奪した。賠償金は当時のわが国国家予算の4年分に相当する巨額なものであった。政府はこのうち80%を軍事力拡充にあて、残りの20%は官営八幡製鉄所(現・日本製鉄九州製鉄所)の建設や鉄道、電信・電話などのインフラ整備に活用した。
軍事力拡充計画の代表的なものは、海軍による「六六艦隊計画」で、この大軍拡なしに、日本は1904年の日露戦争を戦うことはできなかった。何より、八幡製鉄所に代表される、日本の産業革命、重化学工業化が急速に進められた。わが国の産業革命は、中国・朝鮮への侵略と収奪を基礎に(併せて日本国民からの搾取・収奪)進められたのである。
台湾への植民地政策は、同化政策を中心とする過酷なものであった。
鉄道などのインフラ整備が進んだことを理由に、「台湾の経済水準が引き上げられた」などと、日本の植民地支配を肯定する意見もある。これは、実に恥知らずな見解である。日本が台湾に期待したのは、主要に「食料生産基地」の役割であった。事実、植民地時代に台湾の農業産出高は2倍に増加している。インフラ整備は、食料を首尾よく「内地」に運ぶことが主目的であり、台湾住民の生活向上のためのものではなかった。
乙未戦争後も、残兵による蜂起は続いた。霧社事件(1930年)のような、先住民族による抵抗運動も続いた。コミンテルンの指導下、台湾共産党も闘った。これらは、無慈悲な弾圧を受けた。
日中戦争開戦(1937年)以降はとくにだが、日本語強制や神社礼拝などの「皇民化」が推し進められた。「日本兵」として徴用された台湾人は20万人を超え、戦況が悪化するなかで最前線に立たされた。
米軍が分断を「固定化」させた
1943年、米国、英国、中華民国は「カイロ宣言」を発表した。そこでは日本の領土について、台湾及び澎湖島を「中華民国に返還すること」とした。1945年の「ポツダム宣言」(米国、英国、中華民国、ソ連)は、その第8条で「カイロ宣言の条項は履行せられべく…」と、継承された。
大日本帝国政府は、このポツダム宣言を受諾して降伏した。台湾及び澎湖島は、中華民国に返還されたのである。台湾の人々は、祖国復帰を歓迎した。
その後、国共内戦の結果として、蔣介石率いる中華民国「政府」は台湾に逃げ込んだ。中国共産党を中心とする中華人民共和国(中国)が、正統政府となった(1949年)。
台湾住民は次第に、反動・腐敗・生活破壊の蒋介石らへの怒りと不満を高めた。「犬(日本)去りて、豚(蒋介石ら)来たる」という言葉も生まれた。蒋介石らは住民反乱に対し「白色テロ」で臨み、2・28事件(1947年)では3万人近く(一説では10万人)が虐殺されている。台湾では1987年まで戒厳令状態が継続し、民主主義の「かけら」さえなかった。
1950年、朝鮮戦争が始まったことで、中国は台湾統一事業を延期せざるを得なくなった。中国統一を阻んだのは、米軍の介入であった。1950年6月、トルーマン大統領は「台湾に対するあらゆる攻撃を阻止せよ」と第7艦隊を台湾海峡に出撃させ、「米華相互防衛条約」を結び、航空部隊を台湾に進駐させた。また、トルーマン、アイゼンハワーと続く米大統領は、数度にわたり、中国に対する核兵器の使用を検討した。1955年には、米上下両院が、台湾海峡で米軍が軍事行動を取ることを承認した。
こうした構図は、こんにちでも基本的に変わっていない。米国の介入なしに台湾当局は存続できなかったし、こんにちもそうである。
当時、中国を正統政府として承認したのは、ソ連、東側諸国と非同盟諸国で、西側では英国のみであった。米国を筆頭とする西側諸国は、台湾当局(いわゆる「中華民国」)を承認し、返す刀で「中国敵視政策」を行った。日本も「日華平和条約」(1952年)でこれに加わった。
日本は台湾を植民地支配し、戦後は米国に追随して「中国敵視政策」を続けた。侵略と植民地支配の歴史への反省が必要である。糸数・与那国町長は「日本は旧宗主国として台湾に対する責任を放棄してはならない」と、中国への敵視をあおる許しがたい発言を行った。わが国は旧宗主国だからこそ、その歴史を深く反省し、台湾問題に口を出してはならないのである。(K)
参考
映画「セデック・バレ」
日本の植民地時代に起きた霧社事件を描いた長編映画。