20000925


戦後日本の労使関係・労働運動の
歴史的総括のために


(4)石油ショック 「経済整合性」論、政策推進労組会議

 一九七三年十月、第四次中東戦争を契機にしたアラブ諸国の石油戦略(原油価格の大幅引き上げ、生産削減)が、世界とわが国をおそった。第一次オイルショックは、わが国企業と経済社会に深刻な困難をもたらし、十八年間続いた高度成長は破たんした。卸売・消費者物価は二〇%前後と大幅に上昇し、まさに狂乱物価に見舞われた。実質GDPの伸びは戦後初めてマイナス(七四年マイナス〇・二%)となり、悪性インフレをともなう深刻な不況におちこんだ。
 それまで右肩上がりの経済成長を基盤に順調に発展してきた日本的労使関係は、初めての試練に直面した。七六年版「労使関係白書」は、次のようにのべている。
 「ひと口にいって成長の中の共栄が去って、不況の中の苦闘がきたのである。労使関係の近代化が長い成長の時代に育成されたものとすれば、いまはそれをテストする時代である。育成された近代的関係が本物かどうか、それは労使がこの不況の中で互にもち合う関係によって試されるであろう。問題は抽象的ではなく具体的である。止むをえざるレイオフや人員整理に対して労使のそれぞれがいかに対処するか。賃金交渉の論拠を何に求めるか。一つ一つの当面する問題が労使にとって死活の意味をもつことになる。いかにしてこれをのり切るか。そののり切り方に労使関係の将来がかかっているといって過言ではない。」
 周知のように、わが国支配層はこの試練を乗り切り、「先進国一の経済パフォーマンス」を達成してその要因としての日本的労使関係は世界の賞賛をあびた。
 わが国独占企業は、賃金抑制、「減量経営」という名の人減らし、ME(電算化)合理化で乗り切った。繊維、鉄鋼、アルミ精錬など「構造不況業種」ではスクラップを進める一方、加工度の高い機械や小型自動車など省力化・省エネルギー化の設備投資とME化による技術革新をすすめた。自動車産業では、世界に先駆けてロボットが導入され、NC工作機械の導入はいくつかの産業に無人工場を実現させた。このオートメーション化の波に乗って企業は、大幅に賃金コストを削減し、国際競争力を倍加して、輸出を伸ばした。
 だが、企業のこうした経営戦略は本来なら労使関係を緊張させずには具体化できない。危機に臨んで支配層は、育成してきた「労働組合主義」「民主的労働組合」の指導者たちの助けを借りて乗り切ったのである。日経連はこのときの彼らが果たした決定的役割を評価して、のちのちまで感謝している。「日本の経済が難局を乗り切れた最大の要因は、民間企業が自由経済の原則を踏みはずすことなく、労使の理解と信頼、それにもとづく協調の精神の上に行動をしたことであった」(八二年版労問研報告)。
 独占企業と政府にとって、危機乗り切りの最大の課題は、労働者の高まる大幅賃上げ要求を押さえこむことであった。七四春闘で労働組合は、春闘史上最大のストライキを打ち、二万八千九百八十一円、三二・九%の大幅賃上げを獲得していた。これへの対処が、緊急の課題になった。日経連は先頭に立ち、七四春闘直後に「大幅賃上げの行方研究委員会」(七九年以降は、名称を改め「労働問題研究委員会」として継続、その報告は毎年春闘前に発表されている)を発足させ、異例にも十一月に七五年度以降の賃上げのガイドライン(七五年は一五%、その後は一ケタに)を示し、世論を準備した。七五年三月には、日経連の呼びかけで金属四業種(鉄鋼、造船、電機、自動車)の社長・労務担当役員の春闘対策協議の場がもたれた。七六年以降、この四業種からそれぞれ二社が出て八社懇を形成し、「同額同時決着」方式を主導することになる。メンバーは、鉄鋼が新日鉄、日本鋼管、電機が日立、東芝、自動車がトヨタ、日産、造船が三菱重工、石川島播磨であった。政府も密接に連携した。福田蔵相が「物価問題では賃金が大きな原因であり、来年の春闘では民主的なガイドラインができることが望ましい」と応じた。
 労働側で積極的にこれに呼応したのは、春闘相場に大きな影響力を持つ「労働組合主義」潮流のJCグループであった。
 代表格の宮田がまず、鉄鋼労連の大会で「経済成長がマイナス成長になろうとしているなかで、前年度実績プラスアルファの賃上げパターンを続けることは難しく、今後は実質賃金の着実な引き上げを求めていくべきだ」と発言した。それは七五春闘で「経済整合性」論として提唱されるが、「前年度実績プラスアルファ」というそれまで続いてきた春闘方式を転換するものであった。天池同盟会長、宇佐美ゼンセン同盟会長が続いた。政策推進労組会議の前身である民間労組共同行動会議は、「現代インフレと労働組合」と題するシンポジウムを開催した。
 産労懇はじめ、あらゆる機会に政労会談が行われ、政府は七五年三月までに消費者物価を一五%以内におさえる決意を表明した。
 こうした政・労・使の合作によって、七五春闘の結果はシナリオ通り一三・一%に押さえこまれた。
 七五春闘は、春闘のあり方を一変させた。以降、春闘相場は経済全体との「整合性」が主要な基準となり、対前年比を下回り、消費者物価上昇分程度の小幅賃上げとなった。七六年以降の七〇年代の賃上げ率は、八・八%、八・八%、五・九%、五・〇%と低下の一途をたどった。JCグループが主導する労使間の密接な情報交換、交渉を踏まえた「ストなし一発回答」「管理春闘」がパターン化された。
 宮田らは財界、政府の高い評価を受けた。七五春闘時労働省労政局長を務めた道正邦彦は「労使なかんずく宮田、塩路、竪山、高橋(正男)、宇佐美その他の民間労組を主軸とする組合幹部各位のご理解とご協力を抜きにしては七五年の賃金・物価大作戦は成り立たなかった」と回想している。
 これらの労働組合幹部は、独占企業の「減量経営」にも異を唱えず、甘んじて受け入れた。
 それまで大量生産システムの拡大をめざしてばく大な設備投資が続けられてきた製造業では、素材産業などいわゆる構造不況業種を中心に抜本的な過剰設備対策が迫られた。MEの導入による「合理化」、経営の多角化・複合化がすすめられる一方で、「減量経営」の名の下に「雇用調整」が実施された。臨時工・社外工を大幅に削減しただけでなく、本工に対しても出向、配転、一時帰休、希望退職など大規模に「雇用調整」が押しつけられた。とりわけ大企業の人員削減はきびしく、東証一部上場企業八百九十五社の正規従業員数は、七五年三月の三百八十一万人をピークに、八〇年三月には三百三十九万人にまで一一%も減少した。
 代わりに、商業、サービス業など女子パートタイマーが急速に増え始めた。製造業では、七〇年から八二年までの十二年間にわずか三万人の従業者増加にとどまった。素材型部門、とりわけ、繊維、鉄鋼、アルミなど非鉄金属や造船が厳しかった。繊維産業では、七〇年から八〇年の十年間に四十六万人、鉄鋼・非鉄金属産業では三十三万人が削減された。ゼンセン同盟では、七四年二月から八三年八月までの九年半の間に、同組合のある企業で倒産・企業閉鎖、工場閉鎖四百六十六件を含め千百五十五件の合理化があった。
 独占企業の賃金抑制、「減量経営」の攻勢に、企業内で闘争を放棄し積極的な協力の態度をとった「労働組合主義」「民主的労働組合」の潮流は、それをカバーすると称して「政策・制度闘争」に転じ、インフレ抑制、税制改革などに力を入れ始めた。政策制度闘争を前面に押し出した参加型労働運動の展開である。
 たとえば、同盟はインフレの克服には賃上げ、一時金などの生活防衛闘争だけでは不十分として「政府並びに産業、企業の政策決定過程に労働者が参加して、現行の政策体系を転換する行動を強化しなければならない」(同盟「参加経済体制の実現のために 中間報告」七五年一月)と政府の各種審議会の機能強化など「政策形成への参加ルート」の拡大を求めた。JCも「もはや単なる企業内の名目賃上げ中心の闘いでは、現状の日常生活水準の維持すら難しくなっている」と、生活闘争の領域を「企業内から公的・社会的消費の領域に拡大」し、総合生活闘争を推進する必要を説いた(「鉄鋼労連第二期賃金政策」)。
 こうして七六年十月、政策推進労組会議が発足した。ここには民間労組の有力十六単産(総評二、同盟六、中立労連三、新産別二、純中立三)と一組織(全国民労協)が加わった(三百十七万人)。代表世話人には竪山電機労連委員長、橋本電力労連会長、運営委員には宮田鉄鋼労連委員長、宇佐美ゼンセン同盟会長、塩路自動車総連会長、太田合化労連委員長、小方全機金委員長が名を連ねている点に表れているように、ナショナルセンターの枠を超えた民間労組の結集体であった。後に事務局長には、初代連合事務局長となる山田精吾がついた。
 この組織は政策・制度に限定して共同行動をすることを目的としていた。結成趣意書には、「高度成長から安定成長へと転換がはかられる中で、労働者の生活を守り安定させるためには、今日の諸々の政策・制度の抜本的な改革を図ることが必要不可欠」として、当面「経済政策」「雇用」「物価」「税制」の四つに重点項目を絞り、共同行動を推進すると書かれてあった。
 注目しておくべきは、民間先行の労戦統一の母体としての役割がになわされていた点である。趣意書には、「(戦後最大の転換期という)情勢に対処するため、今こそ民主的労働組合が一致団結して、その責任と役割を果たさなければならない」と明記されていた。「こんにち、諸般の情勢から日本の労働運動全体が一体となって行動することは、多くの困難がある。…そこでまず、経済的諸問題で共通の立場に立たされている民間労組が結集して、当面の諸課題の解決のために積極的に行動を起こすことが重大であり、そしてこの積み重ねが大きな将来展望をつくり出す」。
 それまでの労働組合の政策制度闘争は野党との連携ですすめられていたが、政推会議は政府・省庁、政権党の自民党との窓口を開き、直接働きかけることに力点をおいた。首相官邸への申し入れから始まって、各省庁との定期協議、自民党を含む政党、経済団体への要請行動を活発化した。政策課題では、減税、物価対策、行政改革で「成果」をあげた。こうした政推会議の行動様式は、労働組合の政治参加の新段階を画し、以降、連合の制度・政策要求に引き継がれた。
 こうした政推会議の活動は、総評の主力をなした公労協のスト権スト(七五年十一月)が孤立させられて収束したこともあって、労働戦線再編での民間主導を促進した。「保革伯仲」の政治状況下にあった自民党は、政推会議との連携を労働戦線分断、野党分断に利用したが、政推会議はそのことで政治的比重を高めた。社会経済生産性本部は、総評的運動路線と決別することを公然と訴え、「今まさに、容共的革新か民主的革新かの二者択一を迫られている時、政策推進労組会議の行動がその道しるべとなることを心から期待する」と支持を表明、政策推進会議をパートナーにして「参加社会システム」の構築、「企業、産業、地域、国家の各レベルの政策決定に労使が参加できるような制度」の確立をめざす、とあけすけに狙いを語った。
 こうした経過を経て八〇年代に入るや、支配層は総評労働運動の解体を目標に据えて、「行政改革」の下に官公労働運動に攻撃をくわえた。中曽根政権による国鉄の分割・民営化攻撃はその天王山であった。総評労働運動は、決定的な打撃を受けた。
 こうして民間主導での労働戦線統一の動きが強まった。
 七七年春には、賃闘対策民間労組会議が発足し、同年秋には民間労組を中心に「特定不況業種離職者臨時措置法」を成立させた。七九年九月「労働戦線統一推進会」が組織され(塩路、宇佐美、竪山、中村、田中のちに中川)、八一年六月「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を決定し、アピールを発表した。統一準備会を経て、八二年十二月には、全民労協が結成された。
   *      *
 第一次オイルショックによる高度成長の破たんは、日本的労使関係の試練となった。
 独占企業は不況を乗り切るために、それまでのような賃上げに反対し(したがって「成果配分」もなしに)、「減量経営」で人員削減の攻撃に出た。これは、生産性向上運動の三原則を破棄するもので、日本的労使関係の基盤を動揺させるものであった。
 安定した日本的労使関係が継続できるかどうかは、労働組合の態度にかかっていた。JCを中心とする「労働組合主義」潮流の幹部は、その時、積極的に協力する態度をとったのである。日経連の賃金抑制攻撃の前に、「経済整合性」論でこたえた。「減量経営」も甘受した。こうして企業内での闘いを放棄しながら、「企業内ではもはや解決できない」と合理化し、政府、政権党に対する「政策・制度闘争」、政治参加による打開をはかった。いわゆる参加型労働運動の展開である。これは、経済闘争重視からの転換には違いないが、労働組合的政治にすぎない。支配層にとってこの変化は痛くもかゆくもなく、「望むところ」であった。こうして日本的労使関係は、若干の変容を経て「労働組合主義」潮流幹部の裏切りで延命することになった。
 支配層にしてみれば、戦後初めて危機に直面して、長期に育成してきた「民主的労働運動」の指導者たちに救われる経験を持った。企業内の労使関係の不安を押さえただけでなく、そのことを通じて社会不安、ひいては議会制民主主義の危機を未然に防ぐためにも、彼らの役割は決定的であることを学ぶ機会となった。日経連の桜田武会長が述べた「日本的労使関係は社会の安定帯」という評価が、その後支配層の中で定評となったのには根拠がある。
 宮田らJCの「労働組合主義」潮流の幹部、労働運動内部の日和見主義者たちは、その見返りとして支配層から陰に陽に支援を受け、労働戦線統一の指導権を確実にした。
 このようにして日本的労使関係は、第一次石油ショックによる経済成長の危機にもかかわらず、破たんせず、維持され強まって「安定成長」を実現した。だが、それは矛盾の爆発が先延ばしされたにすぎない。

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