(二)日本的労使関係の形成と発展、変容
戦後十年を経てわが国経済は地固めを終えた。一九五六年度経済白書では「もはや戦後ではない」といわれ、「今後の高い成長の原動力は、技術革新のための近代化投資でなければならない」と強調されていた。
ドッジ・ラインと朝鮮特需で復活をとげたわが国独占資本は、サンフランシスコ条約と日米安保条約で国家主権を放棄し、冷戦体制下で米国に資本、技術、原材料、市場を全面的に依存しながら発展をはかる売国的で、反人民的な経済発展戦略を選択した。重化学工業化をテコに、欧米に追いつき、追いこせという考え方のもと、最新の設備、技術を積極的に導入し、優秀で勤勉な労働力で安くて良い製品をつくり、輸出によって経済成長を実現する経済成長路線をとることとなった。
わが国独占企業にとって、積極的な技術革新と設備の近代化による大量生産が経営戦略となり、それに対応する労務管理の再編、労働組合の協力をとりつけることが不可欠の課題となった。
だが労使関係の実際は、ようやく独占企業の側の「経営権」が確立し、経営秩序が回復されたばかりで労使関係のルール形成は混沌(こんとん)としていた。
こうした状況を突破するために、決定的役割を果たしたのが、生産性向上運動であった。わが国独占企業、支配層は米国政府の指導と全面的支援をえて、日本生産性本部を設立し、労働組合を引きこんで、生産性向上運動を大々的に展開した。生産性向上運動は、敗戦直後の労働攻勢に見られたような階級的労働運動を一掃し、労働運動を経済重視・労資協調型に路線転換させる戦略的ねらいをもっていた。太田・岩井ラインの総評も、共産党もこの攻撃に正しく対処できず、その結果、わが国労働運動は長期にわたって支配層の許容する労働運動、経済主義、労資協調路線の支配を許すことになった。
生産性向上運動が浸透するにつれて、協調的な日本的労使関係が形成された。重化学工業をはじめとする独占企業では、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合を特質とし、労使協議制を軸とする日本的労使関係が生成し、高度成長の中で発展し、定着した。「民主的労働運動」「労働組合主義」を標榜(ひょうぼう)する右翼日和見主義の分裂潮流は、生産性向上運動に積極的に加わることで、急速に労働運動内部での影響力を拡大した。だが、第一次石油ショックによる高度成長の破たんは、日本的労使関係の最初の試練となり、変容を余儀なくされた。
以下に、日本的労使関係の形成、発展、変容の過程をあとづける。
一九五五年は高度成長の始まりの年であった。政治の分野では「五五年体制」がスタートした。労働運動も主流であった総評の指導体制が高野から太田・岩井ラインに代わり、春闘の母体となる「八単産共闘」が発足した。いずれも、その後の歴史に大きな影響を及ぼす事件だった。
とはいえ、歴史の現実はそれほど単純ではない。
前に五五年頃までに労働運動は合法主義の枠内に封じこめられたと述べたが、実際には、六〇年までは依然として経営効率化や生産性向上、経済構造・エネルギーの転換をめぐって労資の対立は激しく、大企業においては鉄鋼労連、王子製紙闘争など闘いが展開されていた。また、一九五七年には国鉄新潟闘争、日教組の勤務評定反対闘争が闘われ、五八年には労闘ストを上回る戦後最大の動員で警職法を廃案に追いこんで勝利した。
こうした中、一九六〇年、安保闘争と結びついて日本を揺るがした三池炭鉱労働者の闘いが起こった。三池闘争は、直接には千四百七十一人の指名解雇攻撃を撤回させる闘いであったが、「総資本と総労働の対決」といわれたように労使関係の路線をめぐっての闘争であった。政府、支配層は石炭から石油へのエネルギー政策転換のために、わが国労働組合の最強の砦(とりで)をつぶし階級的労働運動を根絶するために、天王山と位置づけてのぞんだ。
三池炭鉱労働組合は「資本家に勝手にクビを切らせない」「去るも地獄、残るも地獄。闘ってこそ道はひらける」「資本家はいなくてもヤマは残る」と、国内外の労働者の支援を受け、三百十三日の長期ストライキを頑強に闘い抜いた。安保闘争の高潮と結びついて政府を揺さぶり、岸内閣を退陣に追いこんだ。労働者階級の組織された力、団結の威力をいかんなく示し、戦後労働運動史にその名を残した。だが、中労委への異例の白紙委任に応じた炭労、総評指導部によって闘いは収束させられた。
日経連は、この結果を「闘争至上主義的な労働運動」から「生産性向上、成果の分配という経済重視の労使関係」への転換ときわめて意図的に総括することで、労働組合の意思をくじき、階級的労働運動を根絶しようと攻勢をかけた。これに対して労働組合の側は正しく総括できず、全体として清算主義におちいり、政策転換闘争に流れた。職場闘争をはじめ豊富な経験を残した闘争であったが、その経験は十分に学ばれず、三池闘争を境に労働運動での職場闘争は大きく後退した。三池闘争は、戦後労使関係の路線をめぐる転換点となった。
(1)生産性向上運動が決定的役割を果たした
日本的労使関係が形成されるうえで、生産性向上運動は決定的役割を果たした。
一九五五年二月、米国の指導と援助のもと日本生産性本部が設立された。
米国政府は一億二千万円、日本政府が四千万円、財界が一億円の資金をつぎこんだ。郷司浩平が専務理事に就任、会長はその後経団連会長になる石坂泰三、副会長永野重雄、中山伊知郎、理事には足立正、有沢広巳、稲葉秀三、桜田武、植村甲午郎らの有力な財界人、有識者が名をつらねた。
財界四団体、政府、支配層あげての生産性本部は、対米輸出主導型の経済発展戦略に、国民を総動員するための総司令部であった。とりわけ、そこに労働組合を引きこめるかどうかに成否がかかっていた。したがって、生産性向上運動の綱領、政治思想面、イデオロギー面が重視された。
生産性向上運動の綱領ともいうべき「三原則」には、労働組合を引き入れることに最大限の神経が使われた。
「(一)生産性向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って、能うかぎり配置転換その他により失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。(二)生産性向上のための具体的方式については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し協議するものとする。(三)生産性向上の諸成果は、経営者・労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配するものとする」。
要するに、技術革新や設備の近代化による生産性向上に当たって、雇用を守り失業者は出さない、成果は「公正な分配」、つまり賃上げで分配する、これを条件に労働組合は経営者と協力して合理化を進めてくれ、というものであった。
そこには、わずかばかりの賃上げで合理化を推進するだけでなく、階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型労働運動、いわゆる参加型労働運動に誘いこもうとする戦略的な狙いがこめられていた。戦後の嵐のような労働攻勢を経て労働者が経験的につかんだ、要求をストライキで実現し、政治の転換を実現する階級的労働運動を変質させようとする攻撃であった。
賃上げ額をあめ玉に、「企業の繁栄は労働者の幸せ」「労使関係はパートナー」という考え方が、職場の労働者一人ひとりにうちこまれた。まるで階級社会ではないかのような考え方が宣伝された。大規模かつ徹底的なイデオロギー攻勢であった。ちょうどこんにちにおける市場経済万能論が幅をきかせているのと同じような雰囲気がつくられた。
たとえば、郷司専務理事は自らマスコミを使って、「鶏を育てなければ卵はとれない」と「成果配分の理論」(パイの理論)を宣伝して労働者をたぶらかした。「現在、米国労組の多くは、技術部とか技術管理部を設けて、会社の生産性向上に協力している。いわゆるストライキ組合から、科学的合理主義の組合に変貌(へんぼう)しつつあるともいえよう。これは賃金を争う前に、賃金を生む生産性向上に協力する方が、労働者のために有利だと認識したからであって、御用組合化したからではない。鶏を育てなければ卵はとれない。鶏の育成を拒否して卵を要求しつづければ、やがて卵は生まなくなる。生産性向上は鶏をふとらすことだ。…日本経済の生産性が高まって、自立の裏づけがなければ、『独立と生活を守る』運動も、つまるところスローガンに終わるほかない」(「朝日新聞」五五年二月二十一日)
こうした理屈は、「民主的労働運動」をかかげる裏切り者にぴったりするもので、彼らに階級的労働運動と対決する理論的武器を与えることになった。日産争議でスト破りとして登場した塩路一郎は、つぎのように述懐している。「私の出身である日産労組が結成されたのは、昭和二八年八月三十日ですが、私たちのおかれていた環境、当時の経験、それから私たちが連携をとり、ともに民主化運動を闘っていた他産業の仲間がかかえていた問題、あるいは問題意識、そういうものをずっとふりかえってみて、まず指摘しておきたいことは、日本の民間の労働組合の生産性向上運動は、当時の階級闘争論の激しい嵐の中から生まれてきたこと。階級闘争路線に対峙(たいじ)するもの、あるいは対決する運動路線の重要な理念として、この生産性向上という問題を考え始めたということです」と。
こうして階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型の日本的労使関係へ誘導していく政治思想上の準備がすすんだ。
労働組合を思想動員するうえで、実践的には米国への視察団派遣という方法が大きな効果をあげた。生産性本部が発足直後から啓蒙活動に大きな力をそそぎ、米国を訪問して生産性向上のための技術、経験などを学ぶ大規模な視察団をひんぱんに組織した。トップマネジメント、産業別、中小企業などの視察団とならんで労働組合視察団も相当数派遣された。五五年から十年間で約六百六十回、六万六千人の企業経営者、労組幹部、学者や官僚が送りこまれた。このような大規模な海外派遣は、明治期にプロシアからさまざまな国家制度を導入したとき以来の大規模なものだった。
海外視察団の報告をもとに、国内の企業間、労働組合間の交流が活発にすすめられた。労働組合の幹部たちが洗脳されるのに、それほど時間はかからなかった。
つづいて生産性向上運動の重点として取り組まれたのが、労使協議制の普及であった。これは、日本的労使関係の組織的実体的な準備となった。
「労使協議制の第一は、労使の利害共通の原則である」「労使協議制とは、労使が企業や産業の将来を考え、その安定と発展とに共通利害の場を発見し、それに協力するために話し合い、その過程を通じて相互理解をえて、協力関係をつくりあげることをその本来の目的とする」という考え方で労使協議制が次々と設置されていった。
導入の主な狙いは、団交権、争議権の事実上の放棄によって闘えなくなる組合をつくり、合理化に積極的に協力し、実質的には会社の労務課の役割を果たす組合に変質させるところにあった。実際、会社側から彼らにとって都合のよい材料を注入され、すっかり洗脳されてしまった幹部が、団体交渉でも一方的に押しまくられてしまうことがしばしば見られた。
まさに、「階級闘争意識を脱却する意味で協議制が必要になって」(中山伊知郎)いたのである。
こうして生産性向上運動の浸透につれて、労使協議制を軸とする「健全な」日本的労使関係が形成されるようになった。
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