20000925


戦後日本の労使関係・労働運動の
歴史的総括のために


(2)労働運動は路線を問われた

 生産性向上運動は、まさに労働運動内部のすべての潮流に路線を深刻に問うこととなった。当時の労働組合の対応は、大きく二つに分かれた。
 一方には、積極的か条件つきか別にして、賛成するグループが現れた。
 全労(五四年四月結成)、総同盟、海員組合、全化同盟、全金同盟の「民主的労働運動」をかかげる潮流は積極的賛成派であった。このグループは、国際自由労連と同様の考え方に立ち、日本生産性本部に参加して運動の推進をはかり、企業の合理化に協力して労働条件や生活水準の向上をはかろうという路線であった。総同盟の総主事古賀専は、労働組合を生産性向上運動に引きこむ中心的役割を演じた人物だが、「労働組合が生産性向上運動に参加することは、民主的労働運動の理念の普及・徹底、健全な労働運動の発展に寄与するものであるとの認識に立脚したものである」と述べ、生産性向上運動に参加するねらいが、「民主的労働運動」の潮流の影響力拡大にあることを公然と述べた。
 五五年秋には総同盟、海員組合が、正式に本部に加わった。総同盟会長の金正米吉が五六年四月から六三年十二月まで生産性本部で労働側の副会長をつとめた(六四年四月からは滝田実、七二年四月からは造船総連の古賀専)。また、電労連、自動車労連、全映演、日駐労も参加して五八年一月、「全国労働組合生産性討論集会」を開いた。
 全繊同盟、新産別は、条件付き賛成派だった。かれらは基本的に生産性向上運動に賛成の立場だったが、日経連が独善的で雇用の拡大、生活水準向上の具体的保証がないから協力しないと、当初の参加を見合わせた。だが、全繊同盟も六〇年六月には正式加盟した。
 他方、総評は生産性向上運動に反対の態度をとった。中立系組合も反対した。
 総評は「MSA再軍備経済政策の一環で、経営者側が労使協力、生産性向上の美名の下に、労働強化と賃金抑制を図る手段を研究しようする機関だ」(五五年二月十日)といち早く反対の態度を表明した。五五年大会でも「日本経済の隷属化」を強め、「労働条件を悪化させ国民生活水準をいっそう引き下げる『機構』」と暴露し、「『労使協調の幻想』を与え、労働組合の『産報化』を図る」と批判した。
 にもかかわらず、総評は支配層の戦略的狙いを見抜けず、正しく対処できず、攻撃をうち破ることができなかった。
 一つの大きな問題は、支配層の戦略的ねらいが階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型の労働運動への変質をはかるところにあること、したがってイデオロギー、労働運動の路線が根本的に争われていることが見抜けなかった。イデオロギー、路線面の闘いについては、いくらかの教宣活動はやられたが、支配層の大がかりな攻撃に抗するには、一時的できわめて不徹底だった。それは、高野体制に代わった左翼社会民主主義の太田・岩井ラインの経済重視路線とかかわりがあった。太田らは、「政治闘争」を否定はしなかったが、「高野指導部は政治カンパニアに急で、労働者の前進にとって重要な経済闘争に冷淡だ。労働運動とは労働者の即物的な現実的な要求を取りあげて、立ちあがってゆくべきものだと思っている」と批判し、賃上げを重視する「産業別統一闘争」をかかげて登場した。高野がどの程度階級的労働運動の路線に立っていたかは別として、こうした太田の路線では、経済重視・協調型路線への変質をねらう支配層の攻撃に立ち向かうことなどできるはずもなかった。
それゆえ、総評が実際にやれたのは個々の「反合理化」闘争であった。現場の労組にとっては、生産性本部が労使協議制の推進を呼びかけているもとで、どのようにして生産性向上運動に対抗しうる運動を構築していくかはむずかしい問題であった。先進的労組による取り組みが模索されたが、一九五四年の炭労三鉱連の経営方針変革闘争は、その一つであった。「首切りが出されてからスクラムを組み鉢巻きをしめるのではおそい」「従来の労使協議制を一歩こえて、基本的な方針の中にくいこんでいく努力をし、力をもつこと」が必要だとして、それを支える力を職場闘争の推進によってつちかっていこうとした。だが、こうした闘いを組むのは容易でなく、高度成長とともに反合理化闘争は弱まった。
 共産党は、本来、階級的労働運動の立場にたつ潮流として生産性向上運動の戦略的攻撃と真正面から争い、左翼社会民主主義者を激励し、闘いを主導すべきであった。だが、五五年にようやく六全協で合法舞台に復帰したばかりで大衆的影響力も弱く、学者を中心に若干の理論上の批判ができたにすぎない。
 だが、はっきりさせておかなければならないのは、共産党が生産性向上運動に正しく対処できず、以降の労働運動の停滞に責任があるということである。一九六八年に発行された共産党の戦後労働運動の総括文書の決定版(「労働戦線の階級的統一をめざす、労働組合運動の新たな前進と発展のために」)では、生産性向上運動と闘えなかった党としての責任ある総括がないだけでなく、生産性向上運動が階級的労働運動の変質に果たした役割についての認識すら示されていない。これは、共産党が一九六一年の第八回党大会で六一年綱領を採択、宮本体制を確立して、現代修正主義に転落したこととかかわりがある。議会唯一主義・修正主義に転落した共産党の最大の関心は、もっぱら総評内部で「政党支持の自由」をかかげて共産党の票をいかにかすめとるかにおかれた。支配層が生産性向上運動を通じて経済主義・協調型の労働運動への変質をはかろうとする攻撃と真正面から闘って、ストライキによって要求を実現し、階級的団結を強め、政治変革を実現していく階級的労働運動の路線を守ることなど、眼中になかった。共産党のこうした態度は、労働運動内部の左翼社会民主主義者との間に対立を生み、組織分裂さえひき起こして「民主的労働運動」潮流が主導権を奪還するのを助けた。
 全労会議書記長の和田春生は、「生産性運動は労働運動に一番大きな影響を与えた」といっているが、いかんながらその事実は認めざるをえない。当時、主流であった太田・岩井らの総評指導部も、共産党も、生産性向上運動という敵の戦略的な攻撃に正しく対処できず、経済主義・協調型の労働運動への変質を許すこととなった。
 この生産性向上運動をめぐる一大攻防の結果は、前に述べた三池闘争の敗北とも重なって、支配層に日本的労使関係の形成を許す転換点となった。

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