(3)露骨な分裂工作、「組合民主化」を掲げた分裂潮流
労働運動を無力化するためにGHQや支配層が打った手だては、銃剣による弾圧によって共産主義者、左派勢力を排除するだけではなかった。より長期的な手だてとして、労働運動内部に自分たちに呼応する勢力やイデオロギーを広めること、分裂をもちこむことに全力をあげた。すでに述べたが、戦後直後から総同盟の結成を資金面でも支援するなど密接な関係が続けられていた。
二・一スト弾圧をきっかけに、GHQや支配層に呼応する裏切り者が「組合民主化」という旗をかかげて姿を現してきた。総同盟やいわゆる「民主化グループ」が、「共産党の組合支配反対」を唱え、「組合民主化運動」を活発化させた。産別会議の事務局次長の細谷松太らは「指導部の極左的な偏向と行き過ぎ」を非難し、「産別会議から共産党のフラク活動を排除するために闘う」と産別民主化声明を発表、四八年十二月には「産別民主化同盟」(産別民同)を発足させ、四九年七月には新産別を結成した。彼らは、「政党・資本家・政府から支配されない自主性の確立」、「共産党のフラク活動を排除する」という方針とあわせ、「生産復興闘争では資本家の欠点だけでなく、労働者の責任も追及し、職場秩序の確立に努力する」と主張し、経営者、支配層に呼応する正体を自己暴露した。国労の中に「反共連盟」が結成されたのをはじめ、全逓、日教組、日通、炭鉱、電産、電工、機器などでも民主化運動が展開され、産別会議からの脱退が相ついだ。総同盟は、四八年一月、「民主化提案」を決議し、「これらの志を同じくする労働組合と提携協力し、労働運動の本流となるべき新たな結集体を組織する」と激励した。
こうした民同派の策動によって一九四九年は、「戦後最大の分裂」を余儀なくされた。ドッジ・ラインによる企業整備、行政整理の一大攻撃に対して、労働組合が有効に対処できなかったのは、こうした労働戦線の分裂があったのである。民同派は、共産党を「極左的な偏向」と非難する一方で、敵の大規模な首切りに呼応し、国労、全逓などでは不当解雇を認めることで、共産党と左派勢力を組合機関から排除し、労働組合の指導権を奪った。GHQの工作によって、こうした民同派の結集は、四九年年末世界労連を分裂させて結成された国際自由労連への加盟を旗印とするようになった。国際自由労連は、「自由にして民主的な労働運動」を基調にかかげた。
そしてまさに朝鮮戦争ぼっ発直後の五〇年七月十一日、GHQの強力な工作によってこうした民同派をかき集めて、総評が結成された。加盟組合十七、オブザーバー組合十七、組合員約三百二十万人であった。
総評結成大会の宣言は、「日本共産党の組合支配と暴力革命的な方針を排除し、…自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一の巨大なる礎をすえたのである」と述べている。そして「北朝鮮軍による武力侵略に反対する。ただし日本が占領下にある現在、総評は戦争に介入しない」との態度を表明した。
以下のエーミスGHQ労働課長の報告文書は、総評結成がGHQの工作の産物であり、産別会議を分裂させ民同派を育成してつくったものであることをきわめて露骨に語っている。
「総評のリーダーシップは主として産別、全労連、独立的大単産からの出身者で占められているが、これらのリーダーシップを産別支配下の民同運動から総評結成に至るまでに指導した経験から、アメリカ占領軍は金と人さえあれば少数グループでも大勢力に盛り上げることができるということを身をもって体験した。しかし、これは大きな誤りであった。なぜなら、総評は自由な状況下で多数派をかちとったのではなく、占領軍という超憲法的勢力の支配下で、しかも反対勢力を弾圧した後で結成されたものであって、決して成功成功といって騒ぎ立てるほどのことはないのである。…とにかく、総評結成という方針は明白に政治的色彩のきわめて濃厚な対日労働政策であったということができる。けだし、労働戦線の統一と中央集権化をモットーにした総評結成をGHQが援助した第一の理由は、全体主義的イデオロギーと戦術に対する有効な抵抗力を発展させることであったからである」(竹前栄治『アメリカ対日労働政策の研究』「一九五〇年の日本の労働事情」)。
「組合民主化」の旗をかかげた民同派の分裂策動が、いかに戦後の労働攻勢を無力化し、米帝国主義の朝鮮侵略戦争、アジア戦略の遂行を手助けするものであったか、その犯罪的役割は明白である。
だが、わが国労働者階級はこうした裏切り者の支配を許さず、闘い始めた。
一九五一年九月、内外の諸国人民の反対を押し切って、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結され、わが国は形式上の「独立」はしたものの、引き続き米帝国主義の支配下におかれる事態となった。
こうした重大な国の進路の岐路を前に、総評は第二回大会(五一年三月)で、講和問題をめぐり左右が激しく論戦し、「再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現」の「平和四原則」を採択、国際自由労連への一括加盟を廃案にし、高野実事務局長が選出された。総評はGHQの期待を裏切って、結成から一年もたたないうちに「ニワトリからアヒルへ」変身して、闘い始めたのである。平和四原則は、国労、全逓、日教組、私鉄、全日通など各組合大会で確認された。全自動車労組は、平和運動の推進力であった。七月には総評が主導して、社会党、労農党、国民各界による「平和推進国民会議」が結成され、九月一日、全面講和要求のデモが組織された。社会党は、講和問題・安保条約で対立し、左右に分裂したが(五一年十月臨時大会)、総評は左派社会党と政治的なブロックを組んで独立と平和の国民運動の先頭にたった。米軍射撃場に反対する内灘闘争では北陸鉄道労組が軍事物資輸送拒否のストライキで闘った。
また、「独立」後の治安対策として吉田政府が強行した破壊活動防止法の制定、労働三法の改悪に対しては、中立系単産と「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を結成し、五波のゼネストで反撃した。破防法は阻止できなかったが、二・一スト禁圧以来のゼネスト決行で労働者の団結の威力を示し、広範な国民各層との共同戦線をきずいた。
さらに、賃金綱領にもとづく電産や炭労の長期スト(五二年)、会社側のロックアウト、二組のスト破りにひるまず闘った全国自動車労組日産分会の闘い(五三年)、炭労傘下の三鉱連の「英雄なき百十三日の闘い」と呼ばれた首切り反対闘争の勝利(五三年)、「地域ぐるみ」「家族ぐるみ」で闘われた尼鋼争議、日鋼室蘭争議(五四年)など、大規模で長期のストライキが相ついだ。単に上からの指令に従うだけの闘いから、職場や地域で組合員の自発的な参加による下からの盛り上がりが特徴であった。また、全繊同盟の指導の下で闘われた近江絹糸の女性労働者の百日間におよぶ「人権闘争」の勝利(五四年)は全国の労働者を大きくふるいたたせた。
こうした総評のアヒルへの変身に対抗し、民同右派はまたもや新たな分裂をひきおこした。五一年六月の国労新潟大会で敗れた民同右派が新生民同を結成するのを皮切りに九月、全鉱、全造船、全繊、電産の右派が結集して「民主的労働運動研究会(民労研)」を発足させた。趣意書は、「極左勢力は再び組合内部に深く侵入し、活発な潜行活動を展開するに至った。われわれは自由とデモクラシーを守る原則を堅持し、共産主義と対決する指導方針を確立した社会主義インターの立場に立ち、国際自由労連との組織的連携を明確にしなければならない」と述べている。
この流れは、五二年十二月の全繊、海員、全映演、日放労の四単産声明(総評の方針を現実無視の闘争指導、政治闘争の行動部隊的偏向、共産党と大同小異の宣伝などと非難)を経て、「民労連」の発足、さらには五四年四月、後の同盟の前身となる全労会議の結成へと進んだ。民労連の実践綱領には、「経済活動中心、非政党化、議会主義の尊重、暴力的闘争の回避」の基本的立場とあわせ、「スト権乱用の自制、労使協調の是認、政治闘争・画一闘争の排除」など当面の活動指針が盛られていた。全労会議は約八十五万人で結成されたが、運動方針には「単純な階級闘争理論や、よこせ式方針では、有効な闘争を組織することはできない」と総評の方針を批判し、「経営参加」を具体的方針としてうちだした。
* *
以上のように、わが国労働者階級は敗戦と同時に嵐のような前進を開始し、急速に労働組合を組織し、自らの階級の団結した力、ストライキに頼って要求を実現し、未来をきりひらく道を歩み始めた。
戦後復興をめざすわが国独占企業、支配層にとって、労資関係でイニシアチブを奪還して「経営権」を確立することが最優先課題であった。彼らは、GHQの占領政策転換と銃剣に依存して、労働運動の非政治化、無力化に狂奔した。一方で謀略をふくむ徹底した弾圧、他方で露骨な分裂工作によって、労働運動から共産主義者を排除し、指導権を反共民同派に握らせた。
労働者は裏切り者の指導部を乗りこえて闘い始めるが、五五年頃までには「経営秩序」が確立し、労働運動は基本的に合法主義の枠内に封じこめられるようになった。
五三年四月に開かれた日経連の設立五周年総会は、「終戦後労働攻勢のいき過ぎによりまったく均衡を失した労使関係にたいして、経営権の確立を主張し、本来経営者のあるべき地位の向上を図り、労働法規の改定と労働協約の改訂を通じて一応の実績を収めることができた」「産業の混乱と職場のかく乱を企図する破壊分子を排除し、ひきつづき経営秩序の確立につとめた」と総括している。
一九五五年、政治の分野では保守合同による自民党結成、左右社会党の統一が実現し、いわゆる「五五年体制」が確立し、議会制民主主義による政治支配、「選挙で政治が動く」状況がつくられるが、それは労働運動を無力化することによって初めて可能となったのである。その意味でこの時期の労働運動の弾圧は、戦略的攻撃であった。
Copyright(C) The Workers' Press 1996-2000