ホーム労働新聞最新号党の主張(社説など)/党の姿サイトマップ

2022年5月25日号 1面

今こそ安保破棄・基地撤去の旗 高々と

沖縄県民との連帯強め、「台湾有事」許さぬ闘いを

沖縄を差し出した歴代売国政府
 5月15日、沖縄県は1972年の「本土復帰」から50年目を迎えた。政府と沖縄県は同日、「記念式典」を沖縄と東京で同時開催した。
 沖縄会場に出席した岸田首相は沖縄の「本土復帰」について、「戦争によって失われた領土を外交交渉で回復したことは史上まれ」と褒め称え、「日米両国の友好と信頼によって可能となった」と謳い上げた。
 何が「外交交渉」だ。沖縄では第2次世界大戦末期、激しい地上戦が行われ、「県民の4人に1人」、約20万もの人びとが犠牲になった。そして、敗戦後の52年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効で日本から分離された(屈辱の日)。当時の吉田首相はダレス米大統領特使との交渉で、講和と引き替えに、沖縄の長期租借を米政府に提案、また昭和天皇は沖縄の米軍統治を希望する意思を米側に伝えた(天皇メッセージ)。
 大戦後、沖縄は冷戦の始まりとともに、「太平洋の要石」(キーストーン)と位置づけられた。50年の朝鮮戦争、64年のベトナム戦争への介入拡大の際には沖縄から米軍が直接出撃、アジア全域をにらむ米軍の一大拠点とされた。
 その一方で沖縄の住民は日本国憲法も適用されず、基地由来の事故や米兵の凶悪犯罪に生命と生活は脅かされてきた。土地は強制的に基地へと接収され、事件事故を起こした米兵は軍事裁判で無罪になった。
 このような米軍統治に対する沖縄の人びとの怒りの結集点として「復帰闘争」が位置づけられた。60年4月28日には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、住民の諸要求を反映した広範な運動に発展、まさに「島ぐるみ」の闘いとなった。そして、67年の復帰協総会では「安保条約廃棄、核基地撤去、米軍基地反対」の方針を鮮明にさせ、本土における沖縄返還運動とも結合して日米両政府に沖縄返還を迫る原動力となった。68年には主席公選を実現させ、屋良朝苗主席を誕生させた。
 こうした沖縄の闘いの高揚に恐怖した日米両政府は69年11月、佐藤首相とニクソン大統領との共同声明で、沖縄のペテン的「返還」を打ち出したのだ。「核抜き・本土並み返還」を謳いながら、その実、佐藤首相は有事の際に米国が沖縄に核兵器を再度搬入、貯蔵を認める密約を結んでいたのだ。
 わが国売国政府は徹頭徹尾、米国に付き従い、沖縄を「差し出した」のだ。「外交交渉で回復」などというのは歴史を歪曲するものだ。

基地強化叫ぶ米国、付き従う岸田政権
 岸田首相は「基地負担軽減に全力で取り組む」と発言したが、辺野古新基地建設についてはまったく口をつぐみ、日米地位協定の抜本改定にも背を向けた。その上、「日米同盟の抑止力の維持」を強調した。
 そして、エマニュエル駐日米大使はロシアへのウクライナ侵攻を挙げながら「われわれが共有する価値観と原則に自衛はない。自由は無償ではない」と言い、在沖米軍の基地強化と日米軍事一体化に突き進む姿勢をあらわにした。沖縄で発せられたこの発言を断じて許してはならない。
 こうしたなか、バイデン米大統領は22日、わが国を訪れた。訪日中、日米豪印(クアッド)の首脳会議などが開催され、台頭する中国に対し、「共同で抑止し対処する」ことを策動している。
 すでに岸田政権はウクライナにおける戦乱も利用しながら、「次は台湾だ」とばかりに、敵基地「中枢」攻撃や軍事費の国内総生産(GDP)2%を打ち出した。果ては「核共有」までが公然と議論されている。そして、辺野古新基地建設や、宮古、八重山、与那国の南西諸島では自衛隊のミサイル網整備が進められ、米軍との共同訓練が拡大している。

沖縄連帯は日本の進路切り開く闘い
 沖縄とそれに連帯する闘いは、日米安保体制を打破し、わが国の独立・自主と平和、アジアの共生の進路を切り開くものでもある。そうした重大な民族的、国民的意義をいま一度確認しよう。
 ウクライナにおける戦乱は世界が「新しい戦争の時代」に突入したことを示している。
 いよいよ米帝国主義、それに追随する岸田自公政権、安倍一派らは「ウクライナの次は台湾だ」と言い立て、中国への敵対を強めている。そこで起こる「台湾有事」とは即、沖縄が再び戦場になるものだ。
 沖縄を戦場にさせないため、玉城デニー知事を中心とする「オール沖縄」と呼応する全国の闘いを強めよう。95年の10万人県民大会は安保体制への「一撃」となった。「台湾有事」反対、「日中不再戦」へあらゆる行動を展開しよう。


Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2022