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ルポ 東京・荒川を行く(上)

商店街振興の熱い思い


 アメリカの圧力のもと、政府により大店舗法の廃止がもくろまれている中、いくつかの自治体では、商店街や地域の生活環境を守るため、大型店出店調整のための独自の条例や要綱を策定し、規制を加えようとする動きがある。そのなかの一つ、東京都荒川区を訪ねた。


 JR常磐線の三河島駅に降り立ち、近くを歩いてみる。第一印象はなんとも寂しい駅前だといことだ。商店街にはなっているが、いきなりシャッターの降りている店が目に飛び込んでくる。それとお年寄りが多いことだ。それもそのはずで、都内二十三区で四番目に高齢化しているとのこと。

 荒川区の人口は十七万人。一九四〇年から下降の一途をたどる小さな区だが、製造業が占める割合は三二・二%(都内平均一四・四%)と高い。金属製品、印刷出版などが主で、もともと下請け工場の町として発展し、従業員九人以下の事業所が約九割と中小零細企業が中心である。今でも町のあちこちに小さな工場があるが、工場が集中した路地裏で突然マンションに出会うことがある。これは工場の跡地に建てられたもので、製造業の衰退が垣間見える。

 工場だけでなく、商店も多い。小売店が二千七百店あり、従業員数は約一万人で十年前と比べて微増しているが、過半数の商店は一人から二人で営業している零細である。

 また荒川区には在日朝鮮人・韓国人の人が多く、商店街でもキムチや朝鮮料理の食材専門店があったり、ハングル文字の看板が目立つ。レンタルビデオショップにはハングル語版のビデオもある。

   ◇   ◇

 商店街を訪ねる前に、区全体の状況を聞こうと区役所の商工振興課を訪ねた。

 荒川区では、昨年九月一日から「大型店の出店から地域環境を守るための要綱」が施行された。これは、大型店(店舗面積が五百平方メートルを超える小売店)の出店が、地域環境に与える影響を事前に把握し、その対応策を区と出店予定者が協議するための手続きである。

 この要綱がつくられたのは、九三年六月に大型店「オリンピック」の出店計画が浮上してからである。それまで荒川区では一九七五年の「稲毛屋」出店から十八年間大型店の出店計画がなかった。区では工場跡地に増えだしたマンション対策はあったが、大型店対策は、特にはなかったという。

 「オリンピック」の出店計画に対し、地域住民千六百人は区長に環境破壊につながるので反対するよう要請書を提出した。さらに商店街などから一万二千人の署名が議会に出され全会一致で反対決議が採択された。

住民は「スーパーの利便性を否定しないが、そのために商店街がつぶれるなら、大型店はいらない」と主張、区長も区民の声に押され「商店街を守る」立場に立っているそうだ。

 こうした運動があって、要綱がつくられたのである。区によれば、これが施行されてから大型店の出店申請はゼロだそうだ。だが「要綱が抑止力になっているかもしれないが、今年大店法が撤廃されるのを待ってから申請しようとしているのかもしれない」と今後の動きに注目を寄せる。

   ◇   ◇

 実際に商店街の振興に励んでいる利根川昌弘氏(荒川区仲町通り商店街理事長・荒川区商店街連合会副会長)に話を聞いた。ちなみに仲町通り商店街は、昨年テレビ「おじゃマンボウ」で紹介されている。利根川氏は二時間近くも商店街の実情やこれからやろうとすることを熱っぽく話してくれた。 以下はその話である。


 まず商人の現実を見つめることが大事だ。これまで商人は「旦那衆」という意識があった。昔は公務員などより収入が多かったが、今は違う。五十歳前後の公務員で共稼ぎ家庭なら千五百万円ぐらいの年収になる。われわれ商人は平均すれば五百万円前後だ。公務員の三分の一にしかならないニュープアーである。

 また業種によっては、例えばおコメ屋さんや酒屋さんなど、これまで免許で守られていたものが、規制緩和のあおりを受けて非常に苦しくなった。

 一方、大型店は、地価が下がってきたことと就職難で「三K」といわれていたスーパーに人が集まり出している。こうした要因が重なり合って、大型店が進出しやすくなった。

 これまで私たち商人は政治的に音痴だった。普通の労働者は労働組合があり、弱者を守っている。同じ自営業でも農民は農協という組織を持っている。商店街は親睦団体として出発しているので、政治的に遅れをとっている。私たち商人には政治的力はない。ところが労働組合の人びとは、われわれ商店街を保守、自民党の下請けのように思っている人がいる。もちろん商店街にも組合の赤旗を見れば嫌悪感を示す人もいるので同じだが。これはわれわれの努力不足でもあるが、もう少し、お互いに連携すべきではないだろうか。

 いきなり核心をつく話で少しおどろくが、話はさらに興味深く発展していく。(続く)


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