大隈議長・99年新春インタビュー (4)


不安定化する国際政治



 国際政治でも、二十一世紀を前に大きく動いていますね。この国際政治の問題についてどういうふうに見ているか、どういう点に着目しているか、革命運動の展望を含めて見通しなどについてお話しください。

大隈議長 世界政治の現状や展望についてふれるとすれば、色々な方面があるんだと思いますが、世界資本主義の危機の先行きですが、深刻な事態が簡単におさまって、新しい経済の高まりがすぐやって来るとは思えない。そういう現実の上に政治は動いているわけです。

 ですから、世界の抱えている各種の矛盾は、激化する。それぞれの国の内部でも、支配層と被支配層の間では危機を押しつけ合う。世界の国々の間にもどうやって前進するか、列強の間でも二十一世紀をめざしてどう優位に立つか、というような現実があるわけですから、世界は安定する局面ではない、むしろ不安定な時代とみて間違いないと思うんですね。

 それを前提にして、まず私は核の問題について申し上げたい。

 昨年の五月十一日にインドが核実験に踏み切った。パキスタンがそれに続いて、対抗措置として核実験、核開発に動いた。そしていずれも世界が何と言おうと、核保有国になったということなんですね。米国その他、核保有国が激しくこれを非難したのはごぞんじの通りです。

 しかし現実は、国連でも常任理事国は、みな核をもってる。それでいて他国にはつくらせないといってる。だがいまでも世界政治は、軍事抜きには語れない。その軍事力では、核がいちばんの後ろだてになっている。だから主要国は、核開発に血道をあげるわけです。

 米国などの核実験は、臨界前だといいますが、核兵器を開発していることに変わりはないわけで、灰を降らせるか降らせないかという違いだけです。

しかも核保有国は、大国として政治的発言力を核に依存している。たとえばソ連は崩壊したが、そして経済的には息も絶えだえの国ですが、世界の大国としてやっている。なぜかというと、核兵器を持っている大国だからです。米国といえども、このようなロシアとのなんらかの妥協が必要なんです。

 核武装した超大国、米国からみると、他の核保有国と取り引きし、これを仲間に引き入れて「持った奴は仕方がないが、これ以上広がらせないようにしよう」ということで、世界の体制を維持しているわけです。こんな現実をみんなが知っているわけですね、核を持つことの意味を。

 だから、経済的に弱い国ほど、しかも米国からなんだかんだと干渉を受ける国ほど、核を熱望している。やっぱり、小さな国は通常兵器を持つより安あがりでもあるのでしょう。核を持ちたいという国々はとても多いんです。

 インドにしてみれば、人口九億です。これは大国ですね。しかし、世界政治の上での影響力はとても大国にふさわしいものではないわけですから、インドが核を望んだというのはやっぱり理由がある。パキスタンはインドと領土問題で対抗している。だから大国が阻止しようにもなかなか阻止できなかった。

 いったん持ったものを取り上げるのはもっとむずかしい。そして多くの国は、ついにインドやパキスタンも核保有国になったとみています。公然か非公然かは別にして、この流れは強まっています。これからも核保有国が増えると思います。これを阻止できる力はそれぞれの国内にはあっても、現在の国際関係、世界にはないんだと思います。

 本当に核兵器を阻止しようとするのならば、私はやっぱり世界の現実を変える以外に道はないんだと思いますよ。つまり大国も含めて核を廃棄するということがなければ、説得力がありませんよ。自分たちは核を持って、それなりに世界政治の上でメリットがあるわけですから。まして日本が米国の尻馬に乗って核に守られながら、いっしょに非難をしても、それは説得力を持たない。

 そんなことなど考えますと、明らかに二十一世紀は、この核の問題はとても大きな問題にならざるを得ない。大国の身勝手は早晩許されない。大国がもし、命運をかけて結束して核を保有しようとする国を抑えるなどと夢想しても、そうならない。だから二十一世紀もわれわれはとても危険な時代に生きることになる。少なくとも当面はなる、そういうふうに言えるのではないかと思います。

 したがって、昨年起こったことは、きわめて世界の現状を暴露して、あらためてこの問題の重要さを世界の人びとに気づかせることになったというふうに思います。

 われわれは党の声明のなかで申し上げたんですが、逆説的ですけれど、この両国の核実験は、核問題をいよいよ人類の深刻な問題として提起することになった。核問題に対するあいまいさのない、核廃絶に向かうという意味で新しい世論を前進させることになったのではないか。いい加減な大国の、身勝手な、世界に振りまかれた幻想から、正気にもどさせたという意味があったと思います。

 さて、よく言われる世界の危機といわば労働者階級の闘いの問題、あるいは社会主義の問題に少しふれてみたいと思います。

 まず、一九九〇年前後、つまり社会主義が世界的に大きな敗北、あるいは後退をした直後の状況を思い出す必要があると思いますね。当時、「資本主義が打ち勝った」ということを世界中の新聞が書き立てた。支配層もまた、「社会主義は間違った道だった。幻想に過ぎなかった」、「これからは資本主義が世界の唯一のシステムとして、世界は豊かに暮らすことができる」と大宣伝した。いま考えれば、冷戦後の状況をまるで夢のように描いていたわけですが、そういうことが短期間ですが確かにあったんです。しかし、その時われわれは「そうなるまい」と申し上げていたわけです。

 さて、社会主義が後退し、ソ連も崩壊し、それから経済もいたるところが市場経済に移行したりということになったが、その後をみると、またたくまに資本主義も深刻な危機を内包しているということをあらためて深刻に人びとの認識に植えつけたわけですね。共産主義者のわれわれにとっては当然のことですが。

 社会主義が崩壊して資本主義が勝利したといわれるさなかに、それまで社会主義を信じていたような人たち、共産主義者たちの多くは、ごぞんじのように社会主義に展望をなくしてみな市場経済に移行した。公然とやったところもある。たとえば東欧の多くの国々はみなそうです、宗旨替えをした。

 社会主義の指導者たちの、それぞれ独特のニュアンスみたいなものによって、さまざまな言い方があるけれども、一部は公然と資本主義に移行したし、一部は資本主義に移行しないけれども、市場経済に移行することで社会主義を実現したいと、こういうふうになったわけですね。

 そんなことが起こったんですが、しかし、わずかな間に資本主義が深刻な危機を内包していることが明らかになった。

 したがって当面の世界は、起伏を含みはするが、決して安定ではなくて危機は深まる方向にある。危機の押しつけ合いは諸国間で、またそれぞれの国内での矛盾も激化する。経済、生活の諸条件が悪化するわけですから、闘いになると思います。経済闘争は、危機の深まりの中で当然のことながら階級闘争の激化、世界規模の激しい闘争になるわけで、それはまた、集中的には政治闘争となって出てくるですよね。

 ですから、途中で「イデオロギーの時代でなくなった」などと言われましたけれども、危機の打開をどうやるか、それぞれの階級が深刻に考えざるを得ないわけで、なんらかの現状分析やなんらかの理論や、なんらかの政治思想を必要とし、それが鋭く人びとの注目を集めるのは当然のことだと思います。

 そういう流れの中で、労働者階級やこれまで世界の変革のためにかかわってきた人たちは、共産主義者はもちろんその一部ですが、どうやってこの危機を打開して、階級として他の諸階級、あるいは支配層が押しつけている危機に立ち向かうかという現実の問題に回答を与えねばならない。以降の危機の深まりと世界の革命運動というテーマでも考えていかなきゃならんのだというふうに思うんですよ。

 とくに共産主義者たちは社会主義の大幅な歴史的敗北、あれからもうかれこれ十年たつわけです。寝返ったものもおりますが、総括をしながら道を探っている人もいるわけですから。

 一般的ですが、先進諸国では危機がこれからいちだんと深まるわけで、私は労働運動が急速に自然発生的にも再建に向かわざるを得ないと思うんです。だから、これまで労働運動が社会主義の崩壊以降、衰退、あるいは思想政治上の武装解除をされたような流れが顕著ですが、その面からだけで現実の労働運動とこれから先の労働運動を描いてはならないんだと思いますね。

 状況は、たとえば社会主義が崩壊し、ある時期には高成長があって、もちろんバブルが崩壊してけっこう年月がたちましたけれども、人間の認識は遅れるものですね。そういう流れの中で、敵の攻撃とあいまって労働運動は後退したわけです。この後退には根拠があったのですが、しかし、これから先はというと、危機はいっそう深まったという意味でこれまでの局面(根拠)とは違うわけですね。新しい状況、そして確かに認識は遅れるとはいえ、早晩人びとの認識に刺激を与え、認識に変化を及ぼすことは歴史が示すとおりです。

 先進諸国の支配層が全体として激しく企業間の競争を強めている現実は、同時に、企業の内部とそれぞれの国の内部で、コストを引き下げるために労働者階級に激しく攻撃を加えることです。それによってしか、正面の敵と闘うことができないわけですね。それがたとえば日本では、これから減量、リストラ、工場を各地で閉鎖する、この種のことがいよいよ本格化するというかたちで現れてくる。各国とも同じなんですね。つまり、正面の企業間の競争で勝利するために、「内側」で激しく労働者階級に攻撃を加えて、労働者階級の生存の諸条件を引き下げる。

 しかし、これが度が過ぎますと、一定の条件のもとで、突如として正面の敵と闘おうと思って始めたものが、実は内側の敵と本格的に闘わなければならんということにならない保証はないんだと思いますね。それぞれの国を支配する企業家たちは「外」に熱中するあまり、「内」の闘いにいつのまにか火をつけてやけどしないという保証はない。そういう状況がいたるところで起こるとみて間違いないんだと思います。

 それから、弱小国家も闘わざるを得なくなっています。

 列強間の矛盾も激しいんですが、やはり危機が押しつけられる弱小国家、アジアあるいは東南アジア諸国連合(アセアン)のような国々と列強との間の矛盾も激しくなると思います。たとえばアジアでいえば、最近のアジア危機を通じて彼らがどう学ぶかということにかかわりがありますが。もちろん、米国はたとえばアジアに相当に復帰しましたね。そのことによって、従来のようにアセアンが共同行動をとりながら、先進諸国、あるいは米国と対抗していくという戦線を切り崩すことが一時的にできるかもしれない。また現実にアセアンの団結はそういうものがありますね。だけれども、早晩、弱小国家が団結を取りもどす流れというのは避けがたいんだと思うんです。そうでなければ、主要国がいつまでも世界を支配して、なかなか政治的独立から経済的にも先進国の仲間入りすることはむずかしいことだと思うんですね。これはし烈な闘いですよ。

 こんにち帝国主義などないという人たちもいるようですが、日本共産党だってそういうことを言ってるようですし、世界にはこれまで共産主義者とみられたような人たちの中にもそういう意見があるようですが、しかし、形が変わっただけなんですね。つまり、新しい支配、金融支配が非常に大きな意味を持つようになってきているわけですから、もうかるのなら第三世界も助けますよと、こうくるわけですが、しかしもし第三世界の国々が競争力として立ちあらわれるようになればまた別でしょう。

 そういうわけで、遅れた国々が長い間の帝国主義の支配の歴史の中から一歩一歩立ちあがっていく過程はなかなか容易ではないわけですが(最近の危機はそういうことを非常にはっきりさせてきている)、私は危機の時代に、労働者はそれぞれ先進諸国で闘う必要があるだけでなく、世界の労働者と団結すること、あるいは労働者階級が帝国主義と闘うそういう国々の努力に関心を示していくこと、この種のことはとても大事だと思うんです。


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