98新春旗開き


大隈議長あいさつ(3)

イデオロギー問題はきわめて重要となっている


 二番目に若干の感想や問題について。特に昨年後半の状況やそれから、もうちょっとさかのぼれば冷戦の崩壊以降といってもよいでしょうか、あるいは戦後史といってもよいかもしれませんが、大局的な観点から重要と思われることを、いくつか感想的に申し上げてみたいと思います。

正しい歴史観、事実に立脚した観点、価値観など

 一つはだれでも認めておりますように、この局面は歴史的な激動期なんですね。

 私は一昨年の旗開きで、一九八九年から九二、三年頃まで、その数カ年は支配層の側からの大規模な思想攻勢があった、これと闘わなければならないというふうに申し上げました。あらためて昨年後半以降の、この激動を見ながら私は、この問題をもう一度、話してみたいと思います。

 こういう激動期には、歴史についての知識や正しい歴史観、あるいは幻想ではなく現実に立脚した観点、これらが重要です。いろいろな言葉(概念)やその意味、いうところの価値観についても、だれにとって価値あるものか、という問題があります。

 今、うっかりしますと、自分たちではなく支配階級にとってはきわめて価値高い観点が、あたかも自分たちにとっても価値あるもののごとく錯覚し、受け入れてしまう、そんな状況が見られます。洪水のように流されるマスコミによって、つくり出されるからです。

 したがってこういう時期には、ものの考え方、思想問題、総じてイデオロギー問題がきわめて重要であると思います。今、鋭くこの問題が提起されていると思います。

 いくつか実際問題と関連して話してみたいと思います。

 歴史はかぎりなく連なっており、激動期も一度や二度ではなく数え切れないほどです。ですがこの局面、つまり歴史的な大激動期といわれるほどのこの局面を説明しようとしますと、どこかで区切って、少なくとも八五年のプラザ合意とか、冷戦の崩壊とかに、さかのぼって始めるのが普通です。その辺から話しますと何となく格好がつくからだと思います。

 二次大戦の直後からアメリカ帝国主義は世界を圧倒的な力で支配していました。軍事はもちろんですが、経済についても政治についてもアメリカは圧倒的な力だった。しかし、数十年を経過して八五年にアメリカはついに、金を貸す国家から、経済面でいうと金を借りる国家に転落したわけです。これに入れ替わって日本が世界最大の資金供給国になった。プラザ合意はこれを示した。日本は今日でも、政治も軍事も基本的にアメリカの支配下にありますが、しかし、経済については八五年を境にしてそんな具合になった。

 経済面での力関係の変化、アメリカが経済的に弱ってきたというこの現実が、今日進行している世界情勢、この状況のすべてに影響を与えています。これが一つですね。

 もう一つ。そのあと、ソ連の崩壊等々をへて、いうところの冷戦体制が終わったわけです。つまり、八五年の主要資本主義諸国における経済面の力関係の変化と、冷戦崩壊、この二つが重なって、今日のすべての状況や発展が、それ以前とは異なった状況、発展を示すことになっています。

 ですから、現在のすべての情勢の発展を、この二つの変化と関連づけて説明すると分かりやすいんです。

 その冷戦崩壊以降、「資本主義の勝利」から始まって、「世界はこれから平和に向かう」、「一時的にはともかく、安定に向かうであろう」、「戦争のない時代になる」、あるいは「平和の配当」、「経済が大きな役割を演ずるであろう」など、さまざまな予測がありました。あわせて帝国主義の側からの圧倒的な政治思想上の攻勢があった。

 幻想や宣伝はともかく、現実の発展は、一時的とはいえ社会主義の歴史的な敗北後の世界は、列強にとっては支配と被支配をめぐる再分割の時代であること、この世界には帝国主義的強盗もおり、紛争の要因も火種もみんなそろっており、以前の世界と変わっていない。

 だから、この歴史的な激動の時期、あるいは冷戦以降のこの時期は、むしろ安定などはきわめて相対的な、あるいは一時的な現象であろうと、確信を持って言うことができます。

 わが党は数カ年前、この旗開きで、冷戦後の世界の状況を、歴史的な一時代とは言わないにしても、相当長期にわたって不安定な時代であると申し上げました。私は昨年の動きをみながら、あらためてその感を強くしているところであります。

 この時期をさして、イデオロギーの時代ではなくなったなどというのは、うそっぱちです。こういう時期こそ歴史について振り返り、正しい歴史観がなければいけないと思います。

 もし、歴史についての知識がないとすれば、この激動をみて不安でたまらないんだと思います。もちろん、これから先何が起こるか、正確に予測はできません。にもかかわらず、歴史を振り返ることによって、似たような現象を探しだすことは可能です。そしてある程度までそれを心のよりどころとする、あるいは行動のために、あらかじめ心づもりをもつ、等々ができるわけです。正確に歴史が繰り返すということはありえないにしても、それ以外にわれわれがこれから以降を予見することは不可能なんです。

 さらに、歴史を振り返るだけでなく、正しい歴史観が求められるんだと思います。歴史観とは、歴史発展のさまざまな相互関係、なにが歴史を動かすか、などというようなことについてで、これを知ればある程度まで人間は行動の指針を見いだすことが可能だと思います。そういう意味で私は、こういう激動期には歴史に対する知識や正しい歴史観、それの闘争、こうしたことがきわめて重要だと思います。

 また、現実に立脚した観点、あるいは価値観についても同様であります。例えば、冷戦以降、グローバルの時代、あるいはボーダーレス、そして「これからは大競争の時代である」と圧倒的に宣伝され、一国の政府がやることのすべてがそれで合理化されている。

 グローバルな時代といいますが、たしかにすべてウソではありません。しかし、個々の人物があるいは個々の社会勢力がグローバルに自分の行動を広げることが可能かというと、必ずしもそうではない。ボーダーレスといいますが、確かにかつてのように東西という形で冷戦体制があって軍事境界線があるというきびしさはなくなりました。国境、あるいは国家のさまざまな政策の垣根というのは低くなったんだと思います。しかし国家はやはり存在する。

 大競争の時代。大競争の時代にはすべての国は規制を緩和することによって、経済を発展させることができる、という理屈。しかし、よく考えてみますと、これらのことを誰が広げているのかということなんです。

 昔から世界の経済戦争では、保護貿易に反対するとか自由化というような旗印は、すべて経済的な強国が主張してきた。今日のグローバルの時代、大競争、規制緩和というような言葉は、すべて、大企業家たちが「これから先、おれたちは世界中で仕事をする。だからすべての規制をとっぱらってくれ」ということでしょう。違いますか。彼らに最も都合のよいスローガンですね。彼らに都合がよくて、世界人民に都合がよければ、それは結構ですが、世界の人民に都合がよいでしょうか。よいことばかりでしょうか。

 例えばアジアの人たちは、二次大戦後政治的独立を達成し、この数十年、自国経済の建設に営々たる努力を積み重ねてきました。先進諸国の不均等な発展、通貨の変動とかかわっての円高、低賃金目当てのアジアへの投資、こうして七〇年代から始まって、八五年以降、さらに進み、冷戦の終わりや九二年の日本におけるバブル経済の崩壊、西側諸国は資金が余ってどうにもならない状況。これらはアジア諸国からみると、資金を引き入れることで自国の経済建設を進めるまたとない過程、時期でもあった。

 それでも、経済の時代だといっても、自国の政治的独立と一体のもの、経済建設で自国の発展を願っているものと収奪に乗り込んでくるものとの闘争があるのは、隠せない事実です。九三年以降のアジア経済は、世界でますます注目を集めた。

 自由化、規制緩和で日本、アメリカなど西側の資本は、どっとアジアに入り、その発展を支えた。

 しかし次の局面、去年の後半以降の動きをみておりますと、この資金は、都合が悪ければどっと引き上げるわけですね。こういう具合です。

 さっき私は安定は一時的で、不安定こそ一般的であろうと申し上げましたが、経済でも巨大資本、他国の資本をあてにできるのはきわめて一時的なことです。彼らは収奪にやってくるわけですから。もしそうした事実に即したものの見方をせず、つまり「世界が長期にわたって安定するであろう」とか、「世界の資本は、無私的で誰にも公平な対応をする、そういう資金だ」と幻想を持ち、自国の発展を夢みるとすればどうなりますか。事実は違うでしょう。

 この大激動期にはしっかりと正しい認識を持たなければならないと思います。そうでなければ闘いに備えることも、経済の建設も、できないと思います。

アジアの指導者たちは、何を学ぶんだろうか

 さて私は昨年七月以降のアジアの経済危機と関連してさっき若干踏み込みましたが、もう一つふれてみたいと思います。

私はアジアの政治的な指導者あるいは支配的な企業家たちがこの数カ月の変化、これから何を学んだだろうか、これに興味があります。アジアの多くの国々は二次大戦後、政治的独立を闘い取って五十年をへています。彼らは政治的独立の後、自国の経済を、先進国並みにしたいと熱望しているんだと思います。経済的独立を闘い取りたい。

 戦後、政治的独立を闘い取った国々について、私どもが五〇年代、六〇年代によく議論したことがあります。政治的独立を闘い取った国々はアジアにも多くありますし、アフリカ、ラテンアメリカにもあります。こういう国々で、どの階級が指導してその独立を闘い取ったのか。それらの政府はどの社会層あるいは階級に立脚しているのか。それが二次大戦後の政治的独立はもちろんですが、とりわけ経済的独立で、それ以降の発展に大きな意味を持った、と思われるからでした。

 一つの典型は中国だろうと思います。あの国では労働者階級が主導権を取り、農民と同盟して、とりわけ貧農と同盟して政治的独立を闘い取った。もう一つはインドやその他の国々。

 アジアの国の多くでは、指導者は所によっては軍人であったり、民族ブルジョアジーであったりさまざまですが、基本的には民族ブルジョアジーの主導下で、地主との同盟で国の独立を闘い取った。当然、この二つの政治指導部には異なった大衆基盤、異なった状況認識や政治展望、あるいは経済建設の展望が生まれた。

 中国のような国では、国土も広いということもありますが、基本的には農村で思い切って土地革命をやることが可能だった。労働者階級と貧農の同盟ですから。農民は土地を自分のものにしたかった。中国経済のなかで農村が地主から解放され、生産力が解放されて、経済建設の大きな基礎の一つをなした。もちろん他国と取り引きなしでやっていくという意味ではありませんが、基本的に国内に大きな市場を持つことが可能だった。工業と農業の交流を繰り返すなかで自国の発展を描くことも可能だったと思います。

 しかし他の国では、政権を握った民族ブルジョアジーは基本的には地主と結びついている。日本でも年配の方は経験されていると思いますが、地方都市の金持ちの先祖をたどるとだいたい地主ですね、それと同じです。そういう国々の独立を闘い取った政府、指導層は基本的には土地革命をやることができない。農民を地主制度から、インドではカースト制度といってもよいのでしょうが、そうした制度から農民を解き放って労働意欲をわかせ、経済活動に熱中させる、農村の広い市場を前提として資本主義を発展させていくというような道を取るのが難しかったと思います。こういう二つの異なる状況がある。

 だから中国は、自国の労働者や人民、農民を基礎にして経済建設ができたが、他の国は経済建設をしようとすると先進諸国からゼニを借りることになる。このゼニの上にしか、自国の経済建設を想像することができなかった。そういう状況がみられた。多くの国の経済建設は遅々としたものだった。

 最近のアジア諸国、NIES(新興工業経済地域)あるいはASEAN(東南アジア諸国連合)四カ国、ごく最近はASEAN9。これらの国々の奇跡的な発展でありますが、どちらといえば後者に属する。あれらの国の指導者たちは民族ブルジョアジーですから農村の改革についてもきわめて不徹底でした。にもかかわらず近年、急速な発展を見せた。

 彼らは二次大戦後の日本の経験にも学んでいます。つまり、自国の労働者や人民に十分な飯を食わせず働いてもらう。外貨を節約して、血をしぼるようにして輸出し、外貨を獲得し、それで先進国の技術や生産財などを手に入れる。日本の支配層がやったようにして、これらの国々の発展が可能だった。韓国の場合は朝鮮戦争やベトナム戦争で青年の血を売りわたすことで収入を得たという事情があります。

 しかし、最近のASEAN諸国の急速にな経済発展は、非常に具体的にみますと、もう少し違います。例えば日米関係での円高。この円高の度に日本企業はアジアに進出していったんですね。タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンのASEAN四カ国は八八年頃から、九一、九二年になると中国、ベトナムなど、と資本がどっと流れ込むわけですね。バブルの崩壊以降、資本は行き場がなかったわけです。そういう状況で、急速に発展してきた。

 初期の頃のアジア諸国の発展と違いまして、ASEAN四カ国やその後の中国などは、冷戦体制崩壊や行き場のない先進諸国の資本、という条件のもとで、どちらかというと思いきり先進諸国の行き場のないゼニ、外資を自国の経済に組み込む。外資五〇%以下でなくては困るとかの規制はますますいわなくなる。外国資本の直接投資もどんどんやってくれ、となる。税制面でも優遇する。

 こうして急速な勢いで伸び、昨年頃までには、アジアは日米に依存するだけではなく域内で貿易も資金の交流もするようになり、先進国の言うなりにはならないという程に発展した、とも言われていたわけですね。

 しかし、七月以降の通貨や株の下落、金融システムの崩壊みたいな状況、実体経済の深刻な危機、こういうことが起こりますと、資料を調べれば、何が理由でこうなったかとすぐ分かります。もう九四、九五、九六年とアジア全体の経常収支は急速に悪化していたわけですから。こういうことが起これば、後からなら誰だって説明できるんです。しかし、そう数字がなっていても、誰だって今日明日起こるとは思わない。そのうち何とかうまく解決するのでは、こんな具合です。

 いずれにしても、こういう現実をみますと、例えばマハティールさんは、こう言っていますね。「投機、デリバティブとかいって、ばくちやってる連中、ああいう連中の手を抑えられないか。そうでなければどうにもならんのだ」と。言いたくもなろうと思います。政治的独立を闘い取って、何十年も経済でこつこつ努力し、自国人民に食わせるものも節約して外貨をかせいで、経済の自立を達成するという道を取り、そのうちにいくらか気がゆるんだんでしょうか、外国資本をそのまま、何もかも入れればもっと発展は早くなるというので、これは礼を失してまで言うつもりはありませんが、やっぱりいい気になった、気がゆるんだ面があったのだと思いますね。

 帝国主義が野蛮なやつにみえず、紳士的な、支援をしてくれる国にみえたんだと思います。だから今日、あ然とする状態が出て、これらの国の指導者たちの胸中、考えざるを得ないのです。帝国主義というのは非情で、普通の顔をした、「紳士」なんですね。

 さっき私はタイとインドネシア、韓国がIMFの手に落ちたと申しましたが、まさに植民地でしょう。政治的独立などない。インドネシアは自分では予算も組めない。組めば金を貸さないとおどかしている。金大中氏は人民の支持を得て四回も選挙に出て闘ってきた。しかし、やっと勝利した彼が最初にやらねばならないのが、金融資本の側に身を寄せて、自国の労働者階級、人民を企業から追い出すという仕事なんですね。

 先ほど私は、イデオロギー問題が重要だといいましたが、こういう開発途上国の政治的独立だけでなく経済的独立を達成する上でも、依然として帝国主義に対する警戒心や政治的な方面でのきわめて真剣な鋭い観点を持たなければ、世界の金融資本に頼って自国の経済を前進させるということが幻想に過ぎないということ、人びとの認識面はともかく、客観的には二十一世紀を眼前にするこの時期でも、これが現実なんですね。

 依然として世界は帝国主義の時代であって、それとの闘争なしには自国の経済を発展させるのは難しいという問題を鋭く提起したんだと思います。

 これらの多くの国の指導者が、以降、よしんば世界の金融資本の側に立って自国人民を苦しめてこの危機を乗り切ったとしても、彼らの前途はきわめて不安定なものだと思います。よしんば、彼らがうまくいって経済が落ち着いた時、例えばソウルにはアメリカの銀行が堂々とそびえている。財閥といわれた韓国のさまざまな企業が事実上、アメリカの企業の手に落ちているという実態が現れると思います。インドネシアもタイも同じだと思います。

 私は人民に敵対する、しかも他国の資本に頼って政府の運営、企業の運営をする諸君が、これらの国々でいくらか長期にわたって安定を得ようとするのは、幻想に過ぎないと思うのです。

 今、マハティールさんは盛んに、IMFの手に落ちれば植民地になる。だから決して金は借りないといって、あそこは野菜を買うのも外貨ですから、学校や病院で野菜をつくり、外貨を節約して、など必死に金を借りずにすまないかと、やっているようですね。国民を説得し、何らかの意味で自国民の支持を得ながら。まだ自国人民の支持を得ることを忘れないでやっている。しかし、経済危機がやってくれば抜けきれるかどうかという問題があります。

 またマハティールさんはアジアの通貨の下落に苦しんでいる国々と、域内で融通しあうという道を探っている。三カ国は確かにIMFの手に落ちましたが、他の国は苦心さんたんしているわけですね。アジアの団結が保てるだろうか。つまり彼らは、それぞれの国の支配層ですから。しかしある程度はそれぞれの国民の支持のもとで切り抜けようとするか、あるいは残された数カ国の間で連携し、急場をしのぎ、この困難に立ち向かうことが可能かどうか。こういう点で私は、これらの国の指導者たちには歴史的な試練でもありますが、きわめて教訓に満ちた状況ではないかと思います。

 このことは、アジアで闘っている労働者階級にとっても、きわめて重要な問題だと思います。全世界の、帝国主義と闘うすべての人びとにとって、重要なテーマだと思います。

行き詰まったわが国改革政治

 次に若干、国内問題についてふれてみたいと思いますが、同じような観点で述べます。

 わが国支配層は、多国籍企業にとっての価値ある事業を進めようとしているんですね。国際的な大企業間の闘いに参加しようとしているんです。そのために、周囲の壁をみなとっぱらおう、日本にはむしろもっと外国の企業も来てもらおう、と。ビッグバンもそういうことです。国際的闘いに備えようとしているわけですね。

 同様に、例えばヨーロッパでは、一国では立ち向かえないので、各国の支配層、旦那衆たち、それぞれは巨大化した企業ですが、同盟を結んで二十一世紀に備え、し烈な闘いに備えようとしているわけです。

 世界のどの支配層も企業家たちも、二つの方面で敵を持っているんです。一つは自国の労働者階級との闘いです。これの生活を押し下げれば下げるほど、彼らには利益がでる。一つの企業と同じです。しかし、彼らの敵は、もう一つあるんです。世界的規模でまだ十分勝負がついていませんから、それぞれの国の支配的な企業家たち、まあ独占資本という言葉が好きであればそれでよいのですが、彼らは他国のそれと闘わねばならないのです。二十一世紀はこの闘いがさらにし烈なものとなります。

 アメリカ人は一番巨大で、だいたいにおいて勝つと思ってますね。またあれはコンピューターが上手で、特にあのばくち、デリバティブとか、コンピューター・ゲームですね。ハイリスク・ハイリターン、危険は伴うが、利益があるといっている。世界中で「フグ屋」がはやっているわけです。そういうわけで、世界中で、自国を明け渡しても、グローバルに大競争しようじゃないか、といっております。

 こういう中で、日本の支配層もそれを阻止できず、ならばいっそのこと危険は伴うが明け渡して勝負に出る以外に道がない、と今「六大改革」をやっているわけです。何もかも制度を変えなくては間に合わんと六ついっぺんにやったんでしょうが、それでも財政改革を中心に、となっていた。しかし、手遅れですね。環境が悪い。

 国際経済が回復しない。対米関係では、円安ですから国内の輸出業者は大もうけしているわけですね。個別企業は。だがアメリカはこれを歓迎しない。今年はもう、おそらく自動車や家電は大変でしょう。そういうわけで、なかなか国際環境は悪いです。対米関係も、アジアとの関係も悪いですね。アジアの実体経済は今危険な状況にあります。

 日本は資本財、中間財をアジアに輸出してきたわけで、これは今、大部分行き詰まりました。これはますます日本のデフレ要因。これに日本の銀行の不良債権みたいなものですね、まあ今、八十兆円とか百兆円とかいろいろな話があります。さらに今、危機を深めるアジア諸国の外資の三割も四割をも日本の銀行が占めている。貸している。これみんな焦げ付きです。

 そういうわけで、私はさっき申し上げたように、橋本内閣が始めた、そして第二次内閣になっていよいよ本格的に取り組み始めたこの改革路線、とても環境は悪い。タイミング悪いと思います。

 支配層にとっては、何としても「改革」をやりあげないと、世界市場での争いに勝てないと思ったんでしょうが、この状況を見ますと、二〇〇三年ごろ、彼らの財政改革の目標であるこの頃には、いっそう苦しい日本、ということになろうかと思うんです。

 また、アジア経済がすぐに立ち直るかという問題があります。これらの国で、当面の金融システムが安定したところで、それは事の始まりにすぎない。各国で企業が動き始めても、正常に機能し利益を上げていくようになるにはそうとうの条件がないと難しい。そしてそれは輸出で稼ぐ体質になっていますので、基本的にアジア経済が立ち直る前提になるのは日本とアメリカが相撲でいうと、「胸を貸せるか」ということなんです。つまり、その輸出市場に日本とアメリカがなりうるかということなんですね。

 日本は、そうなれますか。アジアの商品がどっと入ってきたら日本はもうたちどころに終わりでしょう。日本の国内の生産はどうにもならない。アジア経済の立ち直りは、それ以前に日本経済が立ち直って、活気に満ちて外国商品も買うという前提をへないでは難しい。しかし、これは数カ年見通しなどまるでない。従って、アジア経済から見るとはけ口がないことになる。

 これからありそうなことは、アジアは徹底してアメリカと日本に売り込む努力をする、そして日本市場の閉鎖性に対する厳しい批判、これだと思います。さらにアジアはもう一つ不安定要素を抱えている。アジア各国の相互関係で、背に腹はかえられず、通貨の切り下げ競争、いわば貿易戦争が起こる可能性もある。そうなればアジア経済、あるいは世界経済は、深刻なデフレ、大きな混乱でしょう。

 またよくいわれるように、中国が世界経済とりわけアジアのこの状況のもとで、涼しい顔しておれるかという問題があります。中国の輸出競争力は、アジア通貨下落の中で急速に悪化している。香港も大変なんですね。ここ一、二年が勝負どころと、新聞は書いているんですね。

 そういうわけで、私は、こういう環境の中で、わが国支配層はますます改革を急がなければならず、他方で、改革をやるのにはますます都合が悪い環境が進んでいる、ということができると思います。

 ですから、この敵にとっての行き詰まった危険な状況が、少なくとも簡単に終わらない、あるいは破局に向かうかもしれないという状況が続くと思います。相当期間続くと。だとすれば、私たちは当然人民の闘いが大前進する、あるいは一定の規模で国民が支配層を圧迫して、支配層に譲歩を迫るような、ある程度までの勝利を獲得できるような情勢が、理屈の上ではあるんだと思います。

支配層に反対する国民の政治的統合を実現するために

 さっきの話と関連してですが、闘いにとっての力関係は、実際には相対的なものです。背が高いといってもきりなく見えない男はいないでしょう。同じですよ。きりなく強い敵、支配層などどんな国にもおりません。それに支配層が強いのには強いなりの理由があるんです。われわれが弱いのは弱いなりの理由がある。昔から支配層は分割して支配するといいます。わずかの人間がたくさんの人数を支配する、自由に動かすわけですから、彼らには知恵があるんです。つまりお互いを仲たがいさせる。誰かを少し良い目にあわせ、だれかを悪い目にあわせる。不和をつくり出してそれを利用する。差別もそれです。

 そこでこちらの知恵の問題があります。こちらはそういうものに対抗できるかどうかが問題なんですね。

 基本的には、労働者階級がまず自分の隊伍を整えて、支配層以外の他の社会勢力、農民であったり中小業者、中小経営者であったり、これらとの政治的な統合を実現できるかという問題です。昔から敵側が強いときは、人民の側を分断しているときで、前提として、まず、価値観や認識を混乱させているからです。

 これは、敵自身の本質的な強さではないんです。人数も彼らは少ないです。人民が分裂しているというこの状態こそ支配が成立する前提なんです。ですから力関係は相対的だといいましたが、基本的には内側の分裂を克服できるかどうかにかかっています。

 克服できなければ敵が強く、克服できれば敵も恐れるに足らないということです。

 また、政治的幅の広さとあわせ、大衆的基盤のある国民運動の形成が勝利にとって不可欠だと思います。現在、敵は何をやろうと、することなすこと、どの社会勢力でもわれわれの側に追いやることが避けがたいのです。政治的な意味での幅が広くて、しかも大規模な数の国民運動が組織できる可能性があります。敵はすでに余裕がなくなっているんです。そういう意味で私はこの問題はきわめて重要だと思います。

 次に、とりわけ内側の弱さを克服するという意味で重要なのは、労働組合の指導者たちや、いくらかでもまだこの危機を憂えている、何かやらなくてはと考える政治党派、あるいは知識人、こういう人たちがこの歴史的な瞬間に戦後五十年の総括をきちんとしなきゃならんという問題だと思います。とりわけ社会民主主義者がどんな役割を演じたかということです。

 自民党の単独支配が崩壊した以降は、もはや敵にとっては薄氷を踏むような状況で、冷や冷やしているわけです。この状況は今でも変わらないわけですよ。この時期に社民党、元の社会党、今日の社民党、これは民主党に行った社民党だけではないです。今日社民党に残っておる諸君も、しかもその中で左派といわれる、あるいはいわれたがっている諸君も、今日の現実では彼らは極めて犯罪的な役割を果たしていると思います。

 もし闘う意思があるとすれば、彼らはさっさと野に下って、街頭に立ち闘うべきでしょう。労働組合の幹部も同様です。なぜ、いつまでも、自分の利益と他の階級の利益を取り違えているのか。改革せにゃならんと全部言ってるではないですか。この改革政治の前途は、支配層は死にものぐるいで闘って、勝つか負けるかは別にして、ある程度の地位を得るとしても、他の諸階級とりわけ労働者階級は決して豊かな状況になることはないんですから。労働者の食い扶持を減らすことによって支配層は助かろうとしているのですから。

 今日、支配層が立ち直る道は、労働者の大部分を街頭に放り出すことです。ちょうど冷房装置と同じで、社長室で涼しい顔をしていられるのは暖かい空気を街頭に放り出すからで、これと同じです。ところが日本の労働組合の指導者たちは依然として敵の価値観にすっかり取り込まれている。誰のための価値なのか、戦後の社民主義がどんな役割を演じたか、この歴史的瞬間にどういう犯罪的な役割を演じるかについて、ぜひとも真剣な総括をお願いしたいと思うのです。

 それに共産党問題があります。先頃の二十一回大会では共産党は、それ以前とはすっかり変わった路線を選択した。支配層と闘うことを捨てたんです。この問題の詳細は、わが党の労働新聞にも載せておりますし、最近パンフレットも出しましたので、機会があれば読んでいただきたいところです。

 共産党は、危機が近いとみているんです。しかし、彼らが政権にありつくのは生はんかなことではない。自民党の四割の票をとったとか、都議選で大きく前進したなど、いろいろ言っておりますが、そして政権が見えるとも言っておりますが、闘いとるのではなくて、すりよることによって支配層から一定の、好意的環境をいただこうとしているんです。つまり、吉田茂がかつて社会党を育てにゃならんといったような意味、そういうところにはまりこもうとしている。

 最近、財界では共産党を、「あれはいろいろ経過もあるから何もかも変われとは言わないにしても、なかなか良くなったのではないか」と評判になってますね。その理由は、支配層がこの連中の利用価値を知っているということなんです。

 日本の労働運動は、いずれ社民主義を克服して闘う時期がくると思います。労働組合の幹部は政党が指導しなくても、幹部が仮に闘いを組織しなくても、労働者の闘いは早晩始まると思います。この歴史的局面ではそういう方向に向かっている。これはヨーロッパの経験を見てもそう思います。

 そういう流れのなかで、例えば社民は、最も選挙で零落したその瞬間に、敵によって政府に入れてもらえた。敵は、いくらかでも労働運動に影響力ある政党を引き入れ、労働者の闘いを抑える役割を担わそうとする。これはあり得ることで、共産党は、これと似たようなチャンスがやがて自分たちにも来ると見ていると思います。

 しかし、いつ来るかという問題は支配層の側の意図しだいですから、出来るだけ柔軟路線をとることによって政権に近づくことをはやめる、そういう路線を最近とったわけです。この点について私どもは以降、徹底的に暴露していく、これは極めて重要だと思います。

 感想問題の最後に、特に申し上げたいのは、日本の労働運動、戦後は社民主義の影響下にあり、そしてその破産が明確になった後で共産党が若干の支持をえる気配がありますが、そういう状況を克服して、大衆的基盤のある国民運動を壮大に発展させる上で、私は理論的な能力、結束力、政治的な組織能力、これらの点で優れた前衛的な政党が緊急に求められている、この点を強調し、わが党に大きな責任がかかってきたとの信念を表明しておきたいと思います。


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