97新春旗開き


大隈議長あいさつ(2)

内容に踏み込んで3点


  つぎに、以降の闘いなどにふれる前に、二番目の問題として、若干昨一年を振り返りながら、議論のあるところについて三点ほど申し上げてみたいと思います。

 一つは、「改革がやられないと日本は滅びてしまう」とマスコミも学者も盛んに言っておりますので、この問題についてふれてみたい。

 二番目に、よく言われる歴史認識の問題。アジア諸国が日本を批判する契機と始終なっておりながら、保守政治家が侵略問題について何一つ改めていない問題。昨年もこうした言動がたびたび出ましたので、これについてふれてみたい。

 三番目は選挙の結果と関連する問題です。社会党の崩壊から何を学ぶのか。共産党が前進したとはしゃいでいますが、期待が出来るのだろうか。その種のことについてふれてみたいと思います。

1、まず、改革問題

 「改革がなければ日本が滅びる」と言って、盛んにマスコミも書く。ちょうど正月でしたが、日本経済研究センターの理事長である香西氏はこう言っている。改革がいかに重要かということを国を挙げて、学者、知識人あるいはマスコミを挙げて宣伝しなければならない。そうでないとこれは痛みを伴うので、とても乗り切れない、と。

 この「改革」ですが、それは決して国民の各社会層に一様な結果をもたらしはしないということを申し上げたい。たとえば現在のこの状況、バブルの崩壊以降と言ってもよいでしょうし、産業の空洞化と言ってもよいと思いますが、この状況でも、バタバタと倒産するところもあれば、収益をとてもうまく上げている企業もあります。ですから同じ情勢のもとで、国民のいろんな部分に一様な幸せが、あるいは一様な不幸がやってくるわけではない。こういうことは体験を通じて皆さんご存じだと思います。

 ところがマスコミはみなそうですが、政党でさえ、「改革」、「改革」と競っている。「政党でさえ」とあえて言うのは、政党は支持者から票をもらっている。支持者の利益のために仕事をすると言って票をもらっている。そしてご存知のように、いくつもの政党があります。つまりこれらの政党は本来、それぞれ異なった地域、あるいは異なった社会層からの支持を受けて成り立っているわけです。したがって異なった意見が、つまり実生活から見て異なった状況があるわけですから、この政治状況を良いというか、悪いというか、中くらいというか、この政治状況に対する評価がいくらか違ってしかるべきではないでしょうか。

 ましてや改革問題というような、国をつくり変えようというような大問題であれば、いくらか意見が違ってもよさそうなものです。

 なのに、政党がみな同じことを言っている。だから実生活をもとにものを考える多くの人たちにとって、政治が今一つ腑に落ちない。だから政治不信が広がる。四割も政治不信だと言われるのはそういうことだと思います。

 政党は本来、成立する上からも、あるいは運営され、生き延び、成果を挙げて前進するためには、どの政党も基本的には一国のなかのどの社会層、あるいはどの階級かに基本的に依存しなくてはならない。そこに役だってはじめて、特定の社会層、特定の階級はその政党に支持に寄せる。そういう仕組みになっているんだと思うんです。つまり経済の発展一つ見ても、各社会層は異なった影響、異なった利益を受ける。その点からある意味で、所得の分配をめぐって各社会層は争っている。その争いに役立つように政党を養っている。これが政党の本当の姿だと思います。

 これが今あいまいになっている。

 ここにはご年輩の方もおいでですが、記憶をたどって戦後から今日までの五十年余りをみると、私も戦後から五十年間政治にかかわってきましたのでよく分かります。政党のポスターをみるとよく分かります。戦後からしばらくの間は遠くから見て、これはどの党だとすぐ分かりました。共産党、社会党などのポスターはおおむね労働者が出ておりまして、スクラムを組んだり、赤旗を立て拳を上げている、こういう形の絵がありました。自民党は桜であったり富士山などでした。高度成長期になりますとやや怪しくなりました。マイホーム主義で、自民党から社会党、共産党まで子ども連れの家族の絵が多くなった。政党の名前を書かないとポスターだけでは分かりにくくなった。

 今日どうでしょうか。まるで分からない。個人の名前だけ書いてあり、小さく何々党と書いてあったり、書いてないのもある。ますます分かりにくくなる。

 どの政党も基本的に依って立つ基盤があるはずです。例えば自民党は非常にすっきりしている、「財界の党」ですね。にもかかわらず、わが党は財界の党だと言ったら票が集まらないので、「国民の党」という。社会党や共産党くらいは労働者の党、せめて勤労者の党だと言ってよさそうなのに、これらの政党もまた「国民の政党」という。だからますます分かりにくい。

 自信がないからでしょう。労働者の党などといま時言ったら評判が悪い。「市民の党」などというのがありますが、「市民」などというのはきわめてごまかしです。その市民は、労働者ですか、中小業者ですか、あるいは大企業の役員すか、と聞いたってよさそうなものです。

 一番肝心なのはそういう点なんですよ。人間の認識に深く影響を及ぼしているのは、何で飯を食っているのかです。どの社会階級に属するか、これが深刻にものの考え方や政治にも響いていますが、そういう点からいいますと自民党が一番政治をごまかさなきゃならん。しかし、左の方はどちらかというと、ごまかさず、「私どもはこのために、この社会層の利益のためにやります」といってよさそうなのに自信がない。みんな「改革」「改革」という。

 労働組合のこの面での惨状、ごらんになってどう思いますか。全逓は民営化されたら困ると自民党まで推さねばならず、自民党まであてにしなけりゃならん。あわれそのものでしょう、労働組合の幹部たちですよ。自民党に自分の運命を委ねようという。

 戦後ずーっと農民が与党に頼ってきた。結果的に、今日の社会で農業は軽んじられ、生産のなかで占める割合はわずかなもの、そこまで落ちて、農民は基本的にやっていけないことになっている。最後に自由化闘争でひどいめにあう。与党に頼って、つまり財界の党に頼って生きていこうとする結果が今日の農村の状況で、農民運動の状況でしょう。

 自己の力に頼るには、農民は確かに社会のなかでは数が少ない。しかし農村は、政治の面からみるとそれなりに大きな力がある。にもかかわらず与党に頼ったが、農民を責められない面がある。なぜなら、農民は支配層とくっついていくらかでも生き残る道を選ぶか、もう一つ前途に見切りをつけて労働者やその他の社会層と連携して多数派を形成し、財界主導の政治を転換することによって自分を守るか、二つしか道がなかったんです。

 その時、なにせ日本の野党はあまりにも無力で、労働運動は企業家たちの影響下にあって、そうした農民に対して手を差し伸べようとしなかった。それは、五十年を振り返って農民の歴史を見る、一つの事実です。

 それはともかくとして、労働組合はどうです。あわれだと思いませんか。自民党に頼っている。どうですか、認識面での惨状は。労働者階級は数が多いわけですから、確固として自分の力に依拠して闘うことが可能なのに、そうなっていない。

 私は、「改革で日本は滅びる」という考えをきちんと暴露する必要を強調したい。

 政府がどれほど積極的にやったかどうかは別にして、例えば八五年以降市場開放がやられた。そのなかで現実としてたくさんの中小企業がつぶれ、とくに零細だった事業主は職を求めて街頭に放り出され、労働者となった。倒産した人たちがどうしているかといいますと、子どもも前途がないので跡をつがない。ご本人たちも倉庫番だとか駐車場の番人だとか、業者たちの最後は労働者のなかに流れ込むわけです。今だってこんな状況で、大変なんですね。

 しかし改革はこれからが本番です。例えば「経済構造改革」では規制緩和が進む。もはや景気対策などやらんといっているでしょう。やっても効果がないからです。さてこの改革で、さらに大規模に企業は倒産するわけです。

 この改革に賛成しますか。例えば、自民党や学者たちがいい加減な意見を吹き込んでいます。「改革がやられないと日本が滅びる」と。仮にそれを飲み込んだとしても、目の前で現実に倒産に追い込まれる人たちは体が許さんでしょう。「こんな改革くそくらえ」と思うでしょう。これが一つの問題。

 それじゃ改革が進んだら、つまりじーっとがまんして、何万軒かはつぶれるが何軒かは生き残る。そして未来があるのだろうか。

 そんなことはありません。アメリカは改革が進んでので「強くなった」といいますが、実態をみますと巨大な利益を挙げているのはわずか一%とか、もっと少ない数で、圧倒的に多くの人たちには豊かな暮らしなどないんです。

 もしそうだとすると、改革の前途によいことがあるかもと言えるのは、今日この不況と円高、産業空洞化と騒いでいるこのもとでさえ収益をあげている大企業、その部分がさらによくなる、それらでしょう。

 大資本はリストラもすでに進め、円高対策ではアジア的規模で企業を分散させているわけですから、そういう諸君にとっては日本で規制緩和をやって、他国からの批判をかわせるわけで(国内を開け渡さないで世界で商売できないのは明らかですから)、「改革」を強力に進めようとしている。

 こうなると、今日倒産する諸君が「改革」に賛成できないだけでなく、かろうじて少数が生き残るにしてもあとでは滅びる。こういう情勢が「改革」の前途に待っている。こうなるんですね。

 財界や政府自身が内外の大変動が予測されるので、「改革しないと国が滅びる」と騒いでいる。彼らにとっても容易でないんです。ましてや彼らとの大きな格差、弱者の立場にある人たちにとって、この状況がどんなに困難かということですね。

 だからこそ現状でも闘わなくてはならず、改革の結果についてもそうした前途をしっかりとみて、断固として反対して闘う。この闘いのなかで国民の多数をたばね、この闘いのなかで政権を奪い取る。この国の政治は戦後ずーっと大企業が引っ張ってきた。この局面はさらに厳しいわけで、敵も苦しくて、今までの仲間でさえ捨てなきゃならなくなっている。それらも含め、多くの人たちを結集して、この闘いを通じて政権を奪い取る。そしてわれわれの理想にあう国の運営と国際社会での生きる道を選ぶ。それ以外にないと思います。

 多くの人たちが改革について期待を寄せないにしても、前途に「ひょとしたら」と期待を抱く人がいるかもしれない。だけれども前途をみてもそれ以外にないと思います。 こう考えますと「改革をしないと国が滅びる」などと新聞をみて深刻になる必要はまったくない。「ほほう、あっちの意見はそうか」と思ってすむことです。腹が据わってくると思います。

2、次に、いわば歴史認識の問題です

 昨年も侵略の歴史を否定する発言が繰りかえされました。それは偶然ではない、意図的だと思います。個々の政治家にとっては「失言」かもしれませんが、この政治家たちは、日本の保守政治のなかで一定の評価を受けてもいる。ちょうどやくざがことを起こして監獄に入って出てくるとハクがつく。保守政治家は時に反動的意見、「侵略侵略というがそんなことはない。やってない」「どこだってやっているじゃないか」などということが、「勇気ある保守政治家」として評価される空気が日本の国内には蔓延していると思います。

 ですからこの問題は歴史の認識問題でもありますが、背景があるということを理解しておく必要がある。野心を持つ者にとっては、改めないことが必要になっている。現に文部省も支配層も歴史教育を慎重に避けている。こういう実際をわれわれは教科書問題などで繰り返し経験しています。このままでは、年配者が死んでしまっても、世代が変わっても、繰り返される。あるいはこの侵略問題があいまいにされるだろうと思う。

 靖国神社への参拝問題も構造的には同じなんです。侵略問題を避けながら、「靖国神社に参拝しないと、この国はどうなるか、国家のために戦った者を軽んじたらこの国はどうなるだろうか」と平然と言っておる。これは構造が同じです。

 歴史認識を正す闘いは、同時に国を再び誤った方向にもっていかせないための闘いでもある。支配層が進めている内外政策と不可分の闘いです。だからこの闘いは容易ではないと思います。

 歴史認識を正す闘いだけを申し上げれば、出来るだけ広範な人々を集めなくてはならないと思います。これは安保再定義以降の新しい情勢のなかで、今日、重要な政治課題の一つになっています。

3、三番目に、社会党の崩壊から何を学ぶかです

 五十年間社会党はやってきましたが、すでに崩壊した。名前は変わりましたが、なんといおうと事実はそうだと思います。

 今日のように企業家たちのものの考え方が教育を通じて、マスコミを通じて、あらゆる日常生活を通じて、世論を支配している、そういう時代にあって、階級的でかつ確固たる理論のない、そういう政党がいかに無惨であるかということが示されたんだと思います。

 その社会党は確かに労働組合に依存してきました。といっても基本的には労働者の圧倒的多数ではなくて(労働組合はご存じのように組織率は低い)、大企業あるいは官公労、何千人という単位以上の大組合が労働運動を指導している、その上層部の意見、これと深く社会民主主義者はかかわってきた。また都市や農村の極めて少ブルジョワ的な階級基盤の上に社会民主主義は成立してきた。こういう政党が、いかに無惨であるかを示したんではないか。

 それに代わって共産党でありますが、総選挙で七百数十万票を取ったとか、得票率十数%とか、もっとこっけいなのは自民党の票と比べてその四〇%の票を取ったとか、歴史的勝利である、路線の勝利である、といっていること。また不破は、今年の旗開きのあいさつのなかで「政治的前進の要は選挙である」と言っている。

 それならば、共産党は歴史的勝利をしたといっているのだから、いくらかは政治に響きそうだと思いますが、残念ながら政治には何の影響もない。

 共産党の諸君は、戦前はともかくとして、戦後の歴史的経験にもまるで学んでいない、と私は思う。理論的にも完全に破産している。

 二次大戦のさなかにヨーロッパでは、例えばイタリア共産党やフランス共産党がレジスタンスの中心になって、国民的な闘争で自国を解放し、威信を闘い取った。それらの国で共産党は二〇数%の得票率を得、第一党になった。にもかかわらず彼らはついに政権にありつけない。

 日本でも一九四九年に、共産党があれよあれよという間に伸びたことがある。信じられないことだった。当時私も共産党でやっておりましたから。しかしその直後の朝鮮戦争ではレッドパージで追放される。共産党は地下に潜らなくてはならなくなった。あるいは七〇年代になって議席を増やすと有頂天になって「七〇年代のそう遅くない時期に民主連合政府をつくる」と言った。地方では次から次に革新自治体が出来ており、それを基礎につくると言った。

 われわれは当時、結党して間もない頃だったが、「幻想である」と批判の論文を書き、あらゆるところでばら撒いた。それからわずかすると共産党は色あせてしまった。

 これが現実ですね。まだ共産党は一三%です。彼らは「政権を展望できる」と根拠づけるのに「国民の期待が従来と違ってきた。もう怖いと思わなくなった」と言っている。しかし、政治意識の変化をずーっとみておりますと、投票する人たちの意識はマスコミ一つでどうにでもなる、あるいは変わりやすい、これが実態でしょう。

 従って、共産党が幻想をいだくのはともかくとして、この道を、つまり社会民主主義者が崩壊して共産党に期待することが、労働者階級の意識分子のなかにひろまって、また五年、十年、数十年とこの後ろについて進むのでは日本は悲惨だと思います。

 「歴史的な勝利だ」と言っても、結果として政治にほとんど影響がでない。そこでは変わらないということでしょう。もしあの諸君が「選挙を要にして世の中を変える」といわないで、選挙はやるが(これはわれわれも反対ではない。われわれも選挙をどこかではやる)肝心なのは何千万の労働者が行動で政治に圧迫を加えることだ、といったらどうなるか。

 今もしそのような集団、政党が登場したら、中小零細業者も農民もこの動きを支持すると思います。支持するどころではない、例えば農民はむしろ旗を持って参加すると思います。農民だけではない商人もそうすると思います。労働者以外の諸階級もそうでなくては守れなくなっている。

 従って、共産党に期待する道ではなく、労働者階級は自分の力に依拠する道、他の諸階層と連携する道を進むべきだと思います。


Copyright(C) Central Comittee OfJapan Labor Party 1996, 1997