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大倉電気支援共闘会議総会

支援、共闘の拡大を確認

解雇撤回まで戦い抜くぞ


大倉電気は五年前、秩父工場閉鎖・大量指名解雇攻撃を行った。指名解雇に屈しない労働者は争議団を結成、支援共闘会議もつくられ闘い続けている。先日開かれた支援共闘会議の第六回総会を紹介する。


 大倉電気争議支援共闘会議第六回総会が十二月十日、埼玉県浦和市で開かれた。 鳥場利治・支援共闘会議代表委員はあいさつで「闘いを開始し五年を経過した。原告団、家族のがんばり、支援共闘に結集する仲間の支援で闘い抜いてきた。争議では裁判闘争が長期化し、泣き寝入りになることも多いと聞いている。しかし、われわれは原告団のがんばりで、勝利まであと一歩まで前進してきた。また支援共闘会議も機能してきた。これからも勝利に向けて奮闘したい。今年は原告団を支えるためにさらに支援共闘の拡大、闘争の強化に努力していきたい」と決意を語った。

 総会では、九六度の経過報告が提案、承認され、次に福田徹弁護士から「大倉裁判闘争の到達点と課題」と題する報告が行われた(別掲)。

 九七年度の方針は、(1)会員二倍化など組織強化、(2)会報、ニュースなどで会員の意思一致を深める、(3)争議団のカンパ活動、物資販売など財政面で積極的に支える、(4)裁判闘争の取り組み強化、他団体との連携を強化しつつ、本社などへの抗議・要請行動の強化をはかる、などの方針が承認された。

 参加した国鉄労働組合熊谷支部からは「国鉄闘争、大倉闘争とも勝利するまで闘い抜く」との決意表明が行われ、自治労県本部の堀江書記長も激励のあいさつを行った。また深田肇衆議院議員や全国の闘う仲間からの連帯のアピールが紹介された。

 最後に団結がんばろうを行い、さらに闘争を発展させることを誓い合った。


大倉裁判闘争の到達点と課題

福田徹弁護士

 九二年に工場閉鎖・整理解雇という労働者への権利破壊攻撃が仕かけられた段階は、労働者が防御の側に立たされていた。その後、闘いを通じて力関係の変化を起こさせた。

 解雇直後の集会から力を蓄積し、支援共闘会議結成に至る過程のなかで、ある程度対抗関係に入ってきた。この対抗関係のなかで基本的に推移している情勢と裁判闘争は、われわれにとっておおむね成功していると思っている。

 この時期における裁判闘争の目的は、会社が整理解雇を正当化しようとする根拠を打ち砕くことにある。

 裁判闘争でいえば、反攻の時期に移りつつある。勝利のためには、さらに団結の質を引き上げることが重要だ。

 原告側の尋問は個人の努力ではなく、支援する労働者など多くの集団の力が現れたものだ。そして労働者側に自信が増大した。それは闘争のエネルギーとしても効果があり、われわれがもう一歩前へ出る態勢がつくられた。具体的には、本社抗議行動、背景資本の第一勧銀への抗議行動として現れている。

 今後の闘いだが、裁判闘争では原告側三人の陳述が会社側を追いつめることが可能だ。つまり会社側が一方的に解雇してきたことを暴露できるだろう。また裁判所外の闘いでは、今後も本社や背景資本への抗議行動を引き続き予定しており、正しい方針だ。

 裁判闘争を支える支援共闘の力を大きくすることは、当然必要である。大倉闘争は、多くの働く仲間が注目しているが、これまでの闘いの方向に沿って進めば、おのずと展望は開ける。


大倉電気争議とは

 大倉電気(本社・東京―当時社員は千八十人)は九二年五月十九日、経営不振を理由に、秩父、坂戸、美里の三工場の労働者六百五十人に希望退職募集を強行。予定人員に達しないとみるや秩父工場閉鎖と労働者三百人以上の整理解雇、配置転換を提案。会社は労組とまともな交渉も持たないまま、七月二十七日、百三十人の労働者に「八月十七日をもって解雇する」と通知。自主退職に応じなかった十四人に対し、指名整理解雇という暴挙にでた。これに対し、大倉電気争議団が結成され、裁判闘争に八人の労働者が立ち上がった。 十月九日、「秩父工場の灯は消すな、整理解雇、強制配転は許さない 大倉電気争議支援共闘会議」が発足した。


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