20010131

21世紀 労働運動を再生させる

労働運動活動家新春座談会

(3)


(参加者)
  • 中村 寛三 (司会・労働党労働運動対策部長)
  • 武見 慎一郎(トヨタ労連支部)
  • 川上 裕治 (マツダ労連支部)
  • 佐川 善之 (全港湾支部)
  • 三本 雅彦 (自治労支部)

労働運動を根本的に問い直すときだ

司会 労働党が発表した論文『戦後日本の労使関係−労働運動の歴史的総括と再生のために』について、皆さんの感想や意見を聞かしていただいて、問題を提起した側として非常にうれしく思っている。それぞれに重要なポイントを押さえて読んでいただいているし、しかも現場で実際に労働運動を担っている立場からの意見だけにありがたい。
 わが国労働運動はこれでよいのかという問い直しの時期にきていることは、程度の差はあれ連合指導部も含めて認めている。問題は、どう打開するのかだ。もはや小手先の思いつきではどうにもならない。どんな本にも処方せんは書いていないし、他国の経験もそのままでは役立たない。
 われわれは今日の停滞、衰退の原因がどこにあるのか、わが国自身の戦後労働運動の経験を真剣に総括する以外に方法はない。その際、客観情勢の変化など外部的な原因にとどまらないで、労働運動の内部に原因を求めメスを入れなければ根本的問い直しとは言えない。
 そういうことで、われわれは「労使関係」に焦点を当て、資本・経営側が戦後経済の発展段階でどんな課題に当面し、どう解決しようとしたか、そのなかで労働運動にどう対処したかを系統的に研究した。敵は、敗戦の痛手から三十年もたたないうちに世界第二の経済大国にのしあがるくらいだから、とてもしたたかで労務管理・労働運動対策の方面でも欧米の経験や理論に学んで、極めて意識的に労働運動を無力化する努力をした。
 中でも、一九五五年からの生産性向上運動の提起とその具体化の過程は決定的で、これによってわが国労働運動は階級的戦闘的発展を阻まれ、経営側の術中にはまったと言って過言ではない。「パイの理論」によって、労働者の意識は「企業あっての労働者」という企業主義・経済主義の枠にとどめられ、労使協議制で労資協調が制度化された。本当は、「労働者あっての企業」なのだが。
 しかし、当時の総評も、共産党も、高度成長の中でそうした経営側の戦略的狙いを見抜けないで、正しく対処できず、こんにちいう参加路線、すなわち労資協調で自分たちの要求や問題を「解決」する潮流に次第に指導権をとられていく。職場闘争も、ストライキもなくなり、モノわかりのよい労働運動となった。
 だがこれが、九〇年代に入って金融グローバル化の大競争の中で一変、資本・経営側がこれまでのような労使関係でやっていけなくなり、そこに依存していた参加型労働運動も行き詰まった。
 このように歴史的に振り返ってみると、問題点もはっきりするし、したがって打開の方向も見えてくる。結論的に言えば、参加路線こそが労働運動停滞の主たる原因で、これを転換することなしに小手先や新たなキャッチフレーズづくりでは労働運動の再生はできない。ところが、連合の「二十一世紀ビジョン」は、旧来の労使関係が続くことを前提にした参加路線堅持だ。金融グローバル化の時代の情勢、経営側の姿勢の変化について、非常に甘い見方をしており、相変わらず経営者と協調して労働者が生きていけると言っている。これは幻想で、極めて有害だ。
 これまでまがりなりにも通用してきた「企業あっての労働者」という考え方は、もはや通用しなくなった。企業自身が「選択と集中」といって、不採算部門切り捨て、合併・買収、分割で勝ち残るのに必死。労働者にとっては明日どうなるか、首の保障がない時代になった。こういう時代に労働者が生きていくには、経営者依存から脱し、階級として身を寄せ合って、階級的団結に依拠してリスクに備える。労働者の連帯の力、ストライキで経営の攻撃から身を守る以外ない。そういう意味で、階級的労働運動というか、そういう路線こそが現実に根拠を持つ現状打開の方向になり得る。

参加路線、企業業別組合の限界は歴然

三本 労働党の論文を職場の人に読んでもらったが、「まったくこの通りだ」「労働党はすごいですね」という反応が返ってきた。また、共産党ももうこういう階級的なことは言わなくなった、とも。
 日本的労使関係、終身雇用・年功序列賃金を基盤とした、企業別労働組合に基づく労資協調の労使関係は限界にきていて、これからの金融グローバル化時代には維持できない。資本が対応できないだけでなく、労働者も企業別労働組合では対抗できない。
 自治体職場も、正規の人、嘱託の人、アルバイトや派遣の人もいて、自治労の方針ではホームサービス、介護保険の公務サービスも組織しなければならないとなっている。そういう中で、自治労が閉じこもって攻撃に耐えるということじゃなくて、地域に出ていって多くの労働者に共闘を求めないとダメだ。本工だけの運動じゃなくて、嘱託やホームサービスまで組織するような運動をつくらなければ、という議論になった。
 企業別組合の時代は終わって、強まる資本の攻撃と闘える労働運動の新たな路線と組織が必要だ。方向を鮮明に示せれば、攻撃があるから当然労働者は立ち上がると思う。それを組織する人や力をつくることがわれわれの課題だ。
司会 階級的労働運動というと何か突飛なこと、あるいは昔の話という人もいるが、資本の攻撃に対抗して雇用や賃上げを実現するため、労働者が団結して闘うことだ。それは労働組合にとって当たり前のこと。ヨーロッパや韓国でもグローバルの流れに抗して労働者がストライキで闘って雇用と労働条件を守っている。韓国では最近大ストライキを打ち、フランスでも、国鉄の民営化に反対して闘い、阻止した。
 日本の労働者にも力がないわけではない。実際、戦後直後の十年間、大いに闘いストライキで首切りを撤回させたり、三倍、五倍の賃上げを実現した。二・一ストのように政治を揺さぶった経験もある。六〇年の三池闘争は、勝利はしなかったが、一年近くもストライキで闘い労働者階級の団結した力の威力を示した。
 労働運動を問い直すという場合、先輩たちのこうした経験、日本の労働者階級の共通の財産というべきものをできるだけ掘り起こしていくことが重要ではないか。
佐川 おもしろいと思ったのは、一九五一年、社会党が右派と左派に分かれたときに、当時の総評指導部は、左派と組んで労働者の要求や国の進路・平和の課題を闘った。下部から見ると、保守も割れている。社会党も割れ、共産党があった。下部からすれば、少数の社会党左派と組んで、必要な主張を出していく。そういうことで「平和四原則」を掲げて闘って、総評がニワトリからアヒルに変身、闘うようになり、国の進路でも先進的役割を担った。結果として社会党の統一も実現した。
 日本の進路が問われるようなときは、数は決定的でない。労働者階級全体にとってなにが課題なのかを鮮明に出せるか、労働者の圧倒的多数が集まれる要求や政策方向を出せるかどうかがカギだ。そういう意味で、連合の民主党支持は大いに問題だ。二大政党制ということで民主党が一つの極を担おうとしている。国の進路が問われているとき、鳩山代表は日米同盟強化、集団的自衛権行使、憲法改正を盛んに唱えている。連合指導部は、そういう民主党を「支持する」という態度をとっている。
 さらに、A50事業という日米安保礼賛の財界団体が主導する事業に賛同している。こんな姿勢では労働者からはもちろん、社会的にも支持されるはずがない。

「負け組」=大多数の労働者のための労働運動が求められている

川上 金融グローバル化の時代には、突き詰めていくと、企業が「勝ち組」と「負け組」に仕分けされる。自動車はそれがはっきりしていて、「勝ち組」はトヨタ、ホンダ。「負け組」は日産、マツダ、三菱などなど。「負け組」の下請けになると、私のところなんか年収は親会社の半分。トヨタからみれば、三分の一くらいになっているかもしれない。労働者もしりに火がつけば、おのずと闘わざるを得ない。そこで大事なことはなぜそうなるのか、「勝ち組」「負け組」が線引きされ、最終的には大きなところしか残らないということをかみ砕いて説明し、「負け組」の労働者はどう展望を開くべきか訴えることだと思う。
司会 それは労働運動の路線を理解する上で重要な話だ。連合指導部はよく「雇用労働者は五千何百万、全就業者の八割を占める」というが、実際に彼らが代表しているのは、「勝ち組」の、しかもエリート社員だ。参加路線は、こんにちではそういうひとにぎりの労働者の上層のための労働運動の路線でしかない。
 求められているのは、大多数の「負け組」労働者の利害を代弁する労働運動だ。参加型とか、階級的とかいう場合、労働者階級のどの層の利害を代弁しているかと深くかかわっている。
 金融グローバル化の時代には、「資本効率重視の経営」ということで、ひとにぎりの国際競争力のある人材には高いカネを払うが、多くの労働者は二束三文で買いたたく。大企業の管理職も含めてリストラの対象から免れない。だからブリヂストンの管理職の抗議自殺のようなことが起こる。労働運動の発展の条件という角度から見れば、経営者は労働者の圧倒的多数を敵に回し、闘わざるを得ない状況に追い込んでいる。
 参加路線ではやっていけない労働者が急速に増えており、労働運動の階級的発展の客観条件は進んでいると思う。

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