20000425


メーデー 米労働者のゼネストが期限(1886年)
連合のメーデー変更

血と汗の「闘い」の歴史を否定


 連合中央執行委員会は四月二十日、「二十一世紀からは、二十世紀のメーデーの精神を引き継ぎつつ『労働・環境・平和・人権』など、普遍的な地球人類の課題を据え置いた『新メーデー(仮称)』を五月一日以外の日に実施する」との趣旨で、二〇〇一年中央メーデーは、四月二十八日に開催し、五月一日には記念行事を行うと決定した。
 連合がメーデーの開催日と内容を変更したことは、単に日程上の問題ではない。闘いの歴史を再確認し、労働者のデモンストレーションを行うことが不要になったということだろう。それは、これまで闘ってこなかった結果でもあるが、さらに労働運動の後退を招くもので断じて許されない。
 メーデーは、労働者の祭典ではあるが、労働者階級の血と汗の闘争によって労働条件の向上をかち取り、政治変革の問題でも国民大多数の要求を掲げて闘ってきた場でもある。
 そもそもメーデーの起源は、米国労働者のゼネストからだった。一八八六年五月一日、米国シカゴの労働者三十五万人が「八時間の労働、八時間の休息、八時間の教育」を要求して、ゼネストを実施した。そして、二十万人の労働者が八時間労働制をかち取った。だが、支配層は五月四日の集会を口実に、多数の労働者を逮捕し、五人を死刑にした。
 そして八九年七月十九日、第二インタナショナル創立大会は五月一日を「国際示威行動の日」と決議した。ここにメーデーが全世界の労働者の国際的、階級的団結を固める日として制定された。
 わが国では、前史はあるものの、一九二〇年五月二日、東京で一万人が参加して初めてのメーデーが行われた。その後、三六年に軍部による「二・二六事件」によって、メーデーも禁止された。
 戦後は四六年にメーデーが再開された。五二年メーデーは皇居前広場の使用禁止のもとで「血のメーデー」となり、労働者二人が殺され、多数が負傷した。
 メーデーは、このように労働者階級の団結を固め、労働者の要求を闘いによってかち取ることを自覚し、支配層にその力を示す日でもある。
 メーデーを変更することは、先輩たちの血と汗の歴史を無視し、闘いの後退を宣言するに等しい。労働組合における階級的教育の日であるメーデーの意義をとらえ返し、本来の目的を胸に刻みつけることが求められている。


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