ホーム労働新聞最新号党の主張(社説など)/党の姿サイトマップ

2021年7月15日号 3面・解説

「枝野ビジョン
支え合う日本」批判(下)

欺まん強める保守政治

 前回、枝野氏が説く外交・安全保障政策(第十一章)が、安倍・菅政権と対立軸がなく、尖閣問題を口実にした中国敵視政策であると批判した。わが国を破滅に導く亡国の道だからである。
 今回は、第一章から第十章までの全体について、主に「保守本流」を自認する枝野氏の理念、旧民主党政権の経験の総括、わが国の現状評価や内政の課題、めざす社会・政治などについての枝野氏の主張について二点だけ検討する。
 詳しい内容は省くが、本書の構成は以下のようになっている。
  *   *   *
 はじめに
 第一章「リベラル」な日本を「保守」する
 第二章立憲民主党結成に至る道筋
 第三章新型コロナウイルス感染症が突きつけた日本の課題
 第四章そもそも日本は今、どこにいるのか
 第五章新自由主義の限界
 第六章近代化の先にある社会の理念
 第七章「支え合い」の社会における経済
 第八章これからの成長の芽はどこにあるか?
 第九章「機能する政府」へのアプローチ
 第十章支え合う社会のためのいくつかの視点
 第十一章地に足のついた外交・安全保障
 おわりに
  *   *   *
 枝野氏は、わが国の現状について、「大きな視野で『現代日本社会がどんな時代にあるのか』を正しく認識し、現状を分析することが必要だ」という。枝野氏はわが国の停滞の原因を「人口減(労働力人口減少、消費者減少)」「近代化モデル」の限界」だと説いている。
 枝野氏の視点で欠落している最大の点は、「健全な日米同盟」とうたっているにもかかわらず、戦後のわが国が米国との政治的、経済的関係の具体的な経過についてひと言も触れていないことである。

対米従属政治が国を荒廃
 第二次大戦後、わが国は米占領軍の支配下に置かれ、一九五一年のサンフランシスコ「平和」条約で形式上は独立国となった。しかし日米安保条約を結ばされ、真の独立国ではなく国家主権も著しく侵害された「事実上の従属国」となり、冷戦体制のなかで米国は反共の防波堤としてわが国を育成、利用してきた。そして冷戦崩壊後も従属的な対米関係は続いている。これはまぎれもない歴史的事実である。
 経済面では、六五年以後日米間の貿易収支が逆転して米国の対日貿易が赤字になり、日米間で貿易摩擦が発生した。七二年に繊維交渉(繊維製品)で対米輸出自主規制、七七年に鉄鋼・カラーテレビの自主規制を受け入れさせられた。
 八〇年代に入って、農畜産物(米・牛肉・オレンジ)の市場開放が迫られ国内農業が大打撃を受けた。また自動車が標的にされ輸出自主規制となった。さらに八五年には投資・金融・サービス市場への米企業の参入など事実上日米間経済のほとんどの分野で米国は要求を突き付けてきた。
 八五年のプラザ合意で急激な円高となり、わが国輸出経済は大転換を迫られた。そして八六年の「前川レポート」とその後の日米構造協議では米国の要求に応えて十年で四百三十兆円の公共投資・インフラ投資を中心とした財政支出(財政赤字)の拡大、民間投資を拡大させるための規制緩和の推進などを約束させられ実施した。そして八六年に「日米半導体協定」が結ばされ、日本製半導体の輸出規制と国内ユーザーへの米国製半導体の奨励という、屈辱的な内容で、当時世界シェア首位だったわが国の半導体産業は米国に徹底的に監視され、潰されることになった。
 それでも米国の対日貿易赤字は減らず、八九年からの「日米構造協議」では、わが国の流通や商慣行までヤリ玉にあげられ、大規模小売店舗法(大店法)の規制緩和さらに廃止(二〇〇〇年)となり、地方の商店街は消滅した。
 一九九三年には、日米構造協議を発展させた形で「日米包括経済協議」がスタートし、新たに知的所有権、政府調達、自動車、保険、金融サービスなどの分野が俎上にのぼった。
 九五年の世界貿易機関(WTO)の設立で日米協議はいったん終了したが、二〇〇一年の小泉政権では「成長のための日米経済パートナーシップ」、一二年の民主党野田政権では「日米共同声明 未来に向けた共通ビジョン」などが発表され日米の協調がうたわれた。
 わが国はバブル崩壊後に米国からの度重なる経済要求に屈して、国民経済は大きな損失を被ってきたのである。
 二〇〇〇年代に入って、中国経済が急速に伸長し、トランプ前政権時は米中貿易戦争の様相が強まってきた。同時にわが国に対しても追加関税を迫り、日米米農産物の市場開放を受け入れる日米貿易協定に署名させられた。
 見てきたように、戦後の日米の経済関係は米国の様ざまな圧力で、市場開放や輸出自主規制、果ては国内法の改悪まで受け入れさせられてきた歴史である。

繰り返されてきた画策
 戦後の自民党単独政権が崩壊し、以降の様々な「連立」政権の時代に入ったのが一九九三年の細川連立政権以降である。枝野氏はその九三年の総選挙で細川氏の日本新党から立候補し、初当選した。
 「細川連立内閣は『反自民』の旗を掲げてはいたが、戦後で、しかみ短命な片山内閣を除けば、保守・自民党政権が初めて保守党以外の他党を政権に参加させた経験となった。保守・中道連立の経験である。また、公明党、民社党、それに社会党も政権に初めて参加し、その飯の味や居心地のよさをおぼえることになったのである(大隈鉄二『わが国保守党の政治支配と策略』)。
 このように、枝野氏は初当選以来、すべての連立政権時代を経験している。
 枝野氏は、「保守」「リベラル」という区別をあえて曖昧にし、九三年までの自民党長期政権を総括して「『保守』の自民党が政権党として『リベラル』な政策を一定程度実現してきた。自民党が長期に政権を維持するため、『社会党の政策を三年遅れで実施する』戦略を採った、という政局的な事情もあるが、日本の有権者は、『社会党への政権交代によってリベラルな施策を実現する』必要性を、強くは感じなかった」と説明している。
 わが党は、自民党長期政権について、「わが国の保守勢力、自民党は政治基盤を確保するために、戦略的に農民を重視し、都市の中小商工業者を重視してきた。そのため(政治支配の)”危機”に際してはとりわけ利益分配政策を、また国外からの保護政策では柔軟、巧妙に演出し、時には財政で補い時間を稼いでは譲歩して、長期政権を維持することに成功してきた」のであり、「わが国の保守勢力は、利益分配型政策が困難になった現在、それも限られた条件のなかで、引き続き戦略的には地方と農業・農民を、そして都市部では中小商工業者を重視し、利益分配型政策を当面は継続しながら、他党との連携、保守・中道連立に活路を求めるだろう(同『政治支配と策略』)と保守・支配層の策略であると指摘している。
 枝野氏の説明は、政権の維持のために自民党がどのような策をとってきたのか、支配構造についてほとんど分析がない。ごまかしである。
 そして、こんにちの「連立」政権時代は、自民党を割って「政権交代可能な二大政党制」をめざして延々と画策されてきた流れである。
 細川政権以降、羽田政権、「自社さ」の村山政権、橋本政権、小渕政権、森政権、小泉政権、安倍政権、福田政権、麻生政権そして民主党政権(鳩山、菅、野田)、安倍・菅政権と二十数年間、さまざまな政党の組み合わせで連立政権が続いてきたが、どの政権もわが国が抱えている困難を克服、解決することはできなかった。わが国の困難の根源である対米従属政治から抜け出すことができなかったからである。
 枝野氏が、さまざまに描く「支え合う日本」も、「健全な日米同盟」のもとで実現できる可能性はなく、まったく「絵に描いた餅である。
 こんにちの世界は、資本主義的生産様式そのものが行き詰った世界である。枝野氏の「ビジョン」も、「現実的」な政治もますます欺まんとなっている。
 こうした中で「国民の多くが、とりわけ労働者が直接の民主主義に望みを託することは大いにあり得ることである」「ほかに道がないとすれば、それを誰が避難できようか(同『政治支配と策略』)。  (H)


Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2021