労働新聞 2004年9月15日号 社説

共産党21回大会路線の
破たんを暴露する

 参議院選挙で惨敗し、深刻な動揺の中にある共産党は、8月26、27日に第2回中央委員会総会を開き、参議院選挙総括なるものを発表した。
 しかしそこには、2大政党制づくりの動きが「予想以上に」投票に影響したとか、「効果的に闘えなかった」、などという戦術次元の泣き言があるだけで、それを許したこの党の指導部の政治的鈍感さや、政治路線の誤りについて、真剣な反省や分析のかけらさえない。さらに、「2大政党制づくりの動きに対抗する国民中心の新しい政治の軸をつくる」などといいながら、2大政党制を急ぐ支配層の狙いと術策、従って2大政党の一方の極として、支配層の走狗(そうく)の役割を果たしている民主党についての根本的暴露も批判もない。これでどうして「政治の軸」をつくるのか、およそ説得力も展望もないものであった。
 あてのない選挙と議会を通じた政権獲得の道を宣伝し、高まる国民的な闘いの方向をねじ曲げる裏切り者、日本共産党が、その政権展望をなくし、茫然(ぼうぜん)自失となるのは自業自得である。しかし、先進的労働者は、この党の早々の敗北からも多くを学んで、幻想を一掃し、闘いの隊列を急ぎ整えることが重要である。

共産党21回大会路線は早くも破たん

 今回の参院選で、共産党は大惨敗した。改選前15議席(選挙区7、比例区8)あったものを11議席も減らし、4議席しか獲得できなかった。しかも選挙区では1議席も維持できず、43年ぶりにゼロとなり、非改選5議席と合わせても9議席と半分以下に激減した。得票数では、98年のピーク時の819.5万票を半分近くも減らす436.6万票であった。
 不破議長、志位委員長ら指導部にとって深刻なのは、惨敗が今回限りのものでなく、2000年総選挙、01年参院選挙、03年統一地方選挙、03年総選挙に続く、5回連続の全国レベルの選挙での大敗となった事実である。
 7年前の第21回大会で不破・志位らは、保守政党との連立による政権参加を夢想して支配層との妥協的な新路線に転換し、「21世紀の早い時期に民主連合政府をつくる」と打ち上げた。それを実現する条件の1つとして「第1段階で衆院100議席、参院数十議席」を獲得すると決議した。しかし、見た通り5回連続の惨敗で、その結果、共産党は「目標」とした議席の10パーセントにも満たない衆院9人、参院9人の弱小会派に転落した。しかも、2大政党化の攻撃が進む中で、政権展望などどこにも見出せなくなった。
 不破・志位らの21回大会路線は、「政権参加」のはるか手前で破たんしたのである。

政権にありつくための「現実路線」のジレンマ

 不破、志位らが主導して採択した共産党の21回大会路線は、「議会の道」には違いないが、それ以前の、たとえば70年代に共産党が提起した民主連合政府、社会党などとの「革新統一戦線」による連合政権構想とも違っている。それは、支配層と徹底して闘うことを捨て、保守政党との連立で政権にありつこうとするもので、かつてのイタリア共産党の「歴史的妥協」路線に酷似したものであった。不破らは、社会党が自民党との連立政権を経て取るに足りない勢力に凋落(ちょうらく)したこと。その下で、さらに危機が深まれば、すなわち労働運動と国民運動が高まった時、支配層が労働運動に一定の影響力を持つ勢力の助けを求める時がくる。これは欧州ではいく度か経験したことで、共産党はそのときこそ政権参加のチャンスで、しかもその時はそう遠くないと判断したのである。
 不破らはそうした狙いを実現するため、21回大会では「民主連合政府」が取るべき政策として、「ヨーロッパ並みのルールある資本主義の実現」などという、多国籍大企業とその政府の、国民への搾取、収奪を覆い隠す政策を掲げ、外交路線でも、米帝国主義の東アジア戦略を意図的に暴露せず、米国とそれに従属するわが国支配層に恭順の意を表明、社会主義を何百年も先のこととして事実上放棄するなど、根本的なところで支配層と闘わないことを表明した。こうして支配層に政権参加を熱望したのである。
 大会後も不破らは、支配層から見て、「政権を任せても安心」な党へと変身を続けた。民主連合政府ができる前にも「よりまし政府」に参加するとし、その際には「安保条約破棄の凍結」をすると表明。さらには、自衛隊の「有事活用」も容認、99年には国旗・国歌の「法制化」を提唱、成立に道を開いた。
 他方、民主党との連立で政権入りを夢見て、「野党共闘」を重視、首相指名選挙で菅代表に最初から投票するなど一方的にすり寄った。
 00年の22回大会は、「労働者階級の前衛政党」を「日本国民の党」に変更、「革命」「社会主義、共産主義」を消し去る規約改正を行った。さらに今年の23回大会では、これらを体系化する綱領改定まで行った。
 不破らの計算では、こうすれば議席が拡大し、民主党との政権共闘が進み、支配層の警戒心も解けるはずであった。
 しかし、不破らの思惑はたちまち狂った。政権参加近しと思い込んだ共産党の選挙での躍進、その条件であった「総自民党化」といわれる政党状況が根本的に変化したのだ。
 危機の深化の下で、多国籍大企業が指導権をにぎった財界は、改革加速を叫び、そのための議会政治の効率性と安定性を求めて、2大政党制の攻撃を本格的に強めた。共産党がどう泣き言を言おうが、敵が共産党などを排除するため、さまざま画策するのは避けがたい。
 90年代半ばの、社民党が取り込まれたような連立政権の構造では、自民党への批判票は、ほかに選択肢もなく、共産党に取り込まれやすかった。しかし、「政権選択」が宣伝される2大政党下では、その批判票の多くは、民主党に吸収される。その上、民主党との連立で政権参加を夢想する共産党は、民主党批判を控え、これに追随した。こうして、共産党の陣地はたちまち霧消した。

この教訓に学ばねばならない

 不破らがこんにち、展望をなくし途方にくれているのは自業自得だが、21回大会路線は現実の階級闘争に少なからぬ否定的影響を与えた。先進的労働者、国民はここから教訓を学び、共産党の裏切りを見抜かねばならない。
 学ぶべき教訓の第1は、自公連立政権下で民主党との連立政権を夢見て民主党との共闘を優先し、小泉と「改革」を競う財界の走狗・民主党を批判せず、労働者の中で民主党が暴露されるのを妨げてきた共産党の犯罪性である。不破らは今ごろになって財界の「2大政党づくり」との闘いをうんぬんしているが、共産党こそ、その策略に手を貸す大罪を犯した張本人である。財界は保守2大政党制を実現するために、社会党を解体し、早くから民主党を2大政党制の一方の装置として育てることに腐心してきた。したがって共産党の民主党との連立構想、共闘路線は、この財界の策略を後押したのである。
 その第2は、なんら成功の当てのない保守政党との連立、政権参加の幻想をまき散らすことで、ますます高まる悪政への不満とエネルギーを数年に1度の選挙ゲームにそらし、断固たる闘争、強力な国民運動の発展を妨げたことである。支配層との徹底的闘いを回避するための「現実路線」、安保凍結の「よりまし政府論」等々の妥協的政策は国民運動に混乱を持ち込み、障害をもたらした。
 こうして不破らの21回大会路線は、全体として崩れ始めた財界の政治を支え、保守2大政党制への立て直しに手を貸したのである。
 共産党の吹聴する「議会の道」、選挙では、議席の躍進も条件的、政権参加も困難で、たとえそれが許されても、財界が牛耳る悪政の片棒を担がせられるか、体制の危機を救う裏切り者の役割を演ずるほかはないのである。この道では、保守2大政党制を打ち破る展望は開けない。
 労働運動を基礎にした大衆行動を伴う強力な国民運動の発展、統一戦線の形成、これこそ勝利するただ1つの、確かな道である。
 先進的労働者、国民は、共産党への幻想を一掃して、国民各層の高まる不満とエネルギーに直接依拠し、確固として闘う道をまい進しよう。


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