労働新聞 2004年8月25日号 社説

許せぬ沖縄の米軍ヘリ墜落事故
SACO合意の欺まん打ち破り、
米軍基地撤去を


 またも沖縄で、県民を震撼(しんかん)させる米軍機墜落事故が起こった。
 宜野湾市で8月13日、CH D大型ヘリコプターが、普天間基地横の沖縄国際大学構内に墜落、炎上した。
 大学は住宅密集地にあり、金属片が家屋の壁やドアを貫通、家具を破壊、バイクや乗用車のフロントガラスに当たるなど、建物13カ所、30台以上の車両などに被害が出た。被害の範囲は直径300メートル以上に及び、死傷者がなかったのが「奇跡的」といえる大事故である。事故後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされる住民も多いという。また、現場での米兵の装備などから、事故機が劣化ウラン弾などの有害物質を搭載していたのではないか、との懸念も広がっている。
 沖縄県民の不安と怒りは頂点である。当然ながら、米軍基地への抗議行動など県民運動の新たな発展が開始された。

米軍基地の存在こそ事故の根本原因

 この事故の真の、根本的な原因は、日米安保体制下で、わが国に駐留する米軍基地の存在そのものにある。しかも、沖縄にはわが国内の米軍基地の75%もが集中しているのである。
 沖縄の米軍基地は第2次大戦後、米国の侵略戦争の拠点として、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、一貫してフル稼働し、危険な実戦訓練が続けられてきた。このような中での事故は必然で、そのしわ寄せは、あげて県民に押しつけられてきた。復帰前の59年には、石川市の宮森小学校に戦闘機が墜落、17人の児童・住民が死亡、100人以上が負傷する事故が起きた。72年の本土復帰以降も、ヘリ69件、固定翼機8件もの事故が起こっている。
 今回の事故は、こうした沖縄の現実が、こんにちもなんら変わっておらず、米軍基地が無法なイラク侵略・占領など、米世界戦略の出撃拠点となっていることを示した。一歩間違えば、宮森小の事故と同じような大惨事となっていた可能性はきわめて高い。
 政府、小泉政権が言うような、基地をそのままにしての「再発防止」など断じてあり得ず、「原因究明までの飛行訓練停止」などの要求は、欺まんに過ぎない。県民は今も、「沖縄戦を思い出した」「次はどこで起こるか分からない」という恐怖の中での生活を強いられている。事故を2度と起こさないためには、すべての米軍基地の撤去以外にない。

占領意識丸出しの米軍、
売国奴ぶりさらす小泉政権

 今回の事故で改めて明らかになったのは、占領軍そのものの米軍の横暴と、それに何ら異を唱えることのできない、小泉政権の売国奴ぶりである。
 米軍は事故直後から、日米地位協定を盾に、県や市、大学関係者はもちろん、県警や消防の現場への立ち入りまでも拒否、周辺道路まで封鎖して、情報の隠蔽(いんぺい)を行った。日本側の立ち入りは、写真撮影のためのわずか10分間のみで、現場検証に至っては、米軍が肝心の事故機を運び出した後、事故から6日も経ってからであった。まさに治外法権そのものである。
 そもそも、事故発生区域にまでも広く立ち入りを制限するなどということは、不平等な日米地位協定にさえ規定されていない、まったくの違法行為である。
 そして、このような暴挙を許し、米国に対して抗議1つできないわが国政府は、到底独立国の政府と言うことはできない。小泉首相に至っては、「夏休み」を理由に、事故について一言もコメントしない一方で、映画鑑賞やオリンピック観戦にうつつを抜かすなど、沖縄県民を愚弄(ぐろう)し続けている。
 98年、米軍機によるロープウエーのケーブル切断事故が発生、20人が死亡したイタリアでは、ダレマ首相が米クリントン大統領(いずれも当時)に抗議、米国は地位協定の見直しを迫られた。
 このイタリアの態度と比較しても、わが国政府の弱腰、売国奴ぶりは際立っている。自民党の中からさえ、「日本が主権国家ではない印象を受ける」との不満の声が噴出している。
 これまでも米軍による事故や犯罪が起こるたびに、現地沖縄は日米地位協定の抜本改定や基地の撤去を求めて闘ってきた。だが、そのたびに政府は「運用改善」とごまかし続け、その結果、事件・事故は一向に減っていない。米軍の犯罪や事故に対する調査・裁判権を確保することをはじめ、日米地位協定の抜本改定は、もはや一刻の猶予(ゆうよ)もない、緊急の課題である。

SACO合意見直しへ発展する闘い

 小泉政権と稲嶺県政は、普天間基地の危険性がこれまで以上に明白となり、基地の即時撤去の声が高まった中でも、これに逆らい、あるいは逆手に取ろうと、米国の要求に追随して、名護市辺野古への基地の「早期移設」方針にしがみついている。
 細田官房長官は19日、移設問題を「これまで以上に加速する」などと発言した。事故直後は「あらゆる可能性を検討する」(牧野副知事)と、辺野古への移設見直しの可能性にも言及していた稲嶺県政だが、政府の方針に従って、わずか1週間で後退。移設見直しを求めない方針を示した。これは県民の願いを踏みにじるものである。
 宜野湾で起こった事故が名護で起こらないと、どうして保障できようか。基地移設が「危険の分散」でしかないことは、あまりにも明白だ。
 いまや沖縄の県民運動は、基地撤去や日米地位協定の改定のみならず、日米特別行動委員会(SACO)合意による、基地の県内移設反対に向け、前進を始めている。
 今回の事故を機に、宜野湾市議会をはじめ10市町村議会が、事故への抗議と基地の早期返還、日米地位協定の見直しなどを求める決議を採択した。中でも、宜野湾市、那覇市、北谷町、与那城町、中城村、北中城村では、SACO合意自身の見直しをも求めている。宜野湾市議会が、99年に自ら可決した「県内移設容認決議」を事実上撤回、普天間基地の閉鎖とSACO合意見直しを決議したことは、その象徴と言えよう。沖縄県内の自治体議会が、SACO合意に再検討を突きつけたのは初めてのことである。
 そもそも、96年12月に日米両政府間で合意された「SACO合意」は、日米安保再定義を前に、前年の少女暴行事件以来高まった沖縄県民の憤激をかわし、基地撤去を求める県民運動の高揚を分断する狙いで打ち出された、欺まん的なものである。そこでは、普天間を含む県内11基地の返還が約束された。しかし、それは、米軍基地の存在も、「軍事機能維持」をも前提にしたものであり、名護市辺野古への代替基地建設と基地機能の1部の本土移転という、実質的な基地機能強化こそが、その本質である。
 だが、「5〜7年以内の返還」という合意にもかかわらず、すでに合意後8年を経ても普天間基地は返還されていない。無為に過ごされたこの期間にも、基地の危険性は何ら解消されず、今回のような大事故の可能性は、1分1秒も県民の上から去らないのである。2000年のサミット開催など、数々の「振興策」をちらつかせた「アメとムチ」による懐柔策にもかかわらず、SACO合意の事実上の破たんは、すでに県民の前に広く暴露されている。地元財界の中にさえ、SACO合意の再検討を求める意見が強まっている。

 今回の事件を契機に、普天間基地の即時返還とSACO合意見直し、県内移設反対を求める沖縄県民の運動は、再び3度、力強く前進するであろう。95年の少女暴行事件を契機とした、島ぐるみの県民行動と、それと連帯した全国での運動が米国と売国政府を追い詰めたように、敵がもっとも恐れるのは、このような県民運動、大衆運動の発展である。
 野党第1党の立場で、「SACO最終報告の早期実施」をなどと、自公政府とまったく同じ態度をとっている、売国奴・民主党などに何ら期待することはできない。
 今度こそ、沖縄の闘いを孤立させてはならない。
 沖縄現地の闘いに固く連帯して、日米地位協定の抜本改定を要求し、米軍基地の分散・移設による基地機能強化に反対し、米軍基地撤去、日米安保体制打破を目指す全国的で国民的な運動を、急速に強めなければならない。


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