労働新聞 2002年11月5日号 解説

知事選データで見る
埼玉県政争史の研究

実践的な戦略計画をつくるため
県政史を分析
       埼玉県常任委員会

 第14回中央委員会総会(14中総)では、各県党が実践的な戦略計画を作成する必要があると指摘している。党中央は、その一環として知事選などの結果をデータベース化することを求めている。県政をめぐる諸階級・政治勢力の争いに対して、一貫した評価と方針をもっていることが、戦略的観点で活動する上で重要なポイントになるからである。
 この間、埼玉県党も選挙結果を分析し、初歩的だが意義深い経験をつむことができた。まだ作業途中であるが、これまでの経験を報告したい。

1.県政をめぐる争いについて、
   分析の結果分かったこと

 「表1」は戦後知事選の経過である。「戦後、保革が争ってきたな」と大ざっぱなことがわかる。いわば「感性的認識」である。以下、その争いの中味を分析する。われわれも何回か、「あっ」と驚くようなことがあった。
 「グラフ1」を見てあらためて感じたのは、「その他(いわゆる諸派)・棄権層」の高さである。棄権は基本的に既成の政治勢力への批判票と見るべきである。県知事選では、ずっと棄権が「第1党」である。とくに90年代に入り、棄権は急増する。2000年の選挙では、「保守相乗り」の土屋知事への票が大幅に伸びているが、この選挙は衆院選とダブルであり、投票率が高まった結果である(ちなみに、80年は衆参同時選挙とのトリプル選挙であったため、唯一棄権層が「第2党」になっている)。
 県民の大多数が県政に不信をもっているとしても、だれかが「勝利する」のが今の選挙制度である。
 グラフを通して戦後の県政を見ると、第1期が保守票が革新を上回っている保守県政の時代。
 第2期は、72年から88年まで5期続く畑革新県政の時期である。76年はなんと無投票再選。80年も自民党は対立候補を立てられず、諸派が出ただけで革新の圧勝である。だが、80年代に入り、保守の巻き返しが始まり、84年、88年と2度の保革対立の後、92年には保守が県政を取り戻す。以降が第3期である。
 第3期の特徴は、社民勢力が分化・縮小し、県政を争わなくなり、保守への相乗り県政になっていく。対立候補は共産党推薦だけになる。「地方政治に保守、革新はない」が大義名分だが、県民が納得していないことは、棄権票の急増が示している。
 
(1)革新県政の誕生と変貌

 この状況を打破する上で、手がかりになるのが72年の革新県政誕生である。「グラフ2」を見ていただきたい。保革が争い、保守が勝利する第1期は、自社公認候補同士の政党間の争いでもあった。特に自民党は、72年に敗北するまで公認候補で争っている。
 ここで驚いたことがある。「グラフ1」でみると保守票は自民党公認でも、順調に票を伸ばしているように見えるのだが、「グラフ2」の絶対得票率をみると60年がピークで、72年まで一直線で減っている。
 一方、革新は67年に社共推薦の美濃部東京都知事が誕生し、埼玉も68年から革新無所属候補になり、票を増やし、72年に勝利する。共産党はここから「社共統一戦線こそ勝利のカギ」という。これだけだろうか。
 一般的にも「人口流入と都市化のなかで県の南部に勤労者が増え、社・共の支持基盤が拡大し、革新県政が誕生した」といわれる。共産党もこの説を前提としている。そうだとすれば、革新は都市部が得票率が高く、農村部は低いことになる。そこでとりあえず「市部が都市部、郡部が農村部」とみて、市部と郡部の絶対得票率をとってみた。その次に郡部の絶対得票率を市部の絶対得票率で割ってみた。それが「グラフ3」である。「1.0」以上であれば比較的郡部での得票率が高いという意味で「農村型」、以下であれば比較的都市部での得票率が高いという意味で「都市型」といってよいかもしれない。
 分かりにくいグラフだったが、議論しているうちに奇妙なことに気がついた。埼玉は高度成長にともない、60年代から急速な人口流入が始まっている。56年から68年までは棒グラフは、すう勢としては減っている。68年までは都市型の得票構造という意味で、上記の一般的な説の正しさを裏付けているのである。
 だが、畑革新県政が誕生した72年は再びグラフは上昇に転じる。そして80年代に入り、指数が を超え、畑県政が続く88年までそれが続く。そして保守県政ができる92年以降は、再び郡部の割合が減少し、都市型に戻り、2000年には68年の水準に戻っている。
 畑革新県政は「農村型」だったのである。ここに革新が5期も続いた理由を解明するカギがあるのかもしれない。
 ちょうど30年前のことだが、当時の事情は以下のようである。県党が2年前につくった戦後史の簡単な年表を引用する。
【1972年、畑やわら氏が県知事に】
 畑氏は社会党、共産党推薦。保革対決となる。自民党は、候補者選定をめぐり大野元美川口市長、大塚茂副知事、栗原浩現職知事の三派に分裂。自民本部は大野を指名、この指名をめぐり、大野派の県会議員22人は「拓政会」を、栗原派の県会議員17人は「陽風会」をつくり対立】
 革新県政誕生のポイントは保守の分裂だったのである。現職知事を押しのけて候補者になった大野氏は、川口市長だった。川口は昔「キューポラのある町」という映画にもなったほど、鋳物・機械で有名な小・零細工業の町であった。最近まで市長は必ず自民党公認で、鋳物工業会の会長経験者だった。
 そこで、4選していた栗原氏の経歴を調べて「なるほど」と思った。県最北部の「大利根出身」だったのである。利根川をはさんで向かいは茨城県である。典型的なコメどころである。分裂の背景は農業を基盤にする支配層と工業を基盤にする支配層の権力をめぐる争いだったのではないか。
 この分化を革新が巧みにとらえた。
 革新候補の畑和・衆院議員は大利根の隣の加須市出身である。当時の社会党には、戦略家がいた、ということだろう。
 次に、72年に革新がどこで票を取ったのかを具体的に特定してみた。「地図1」がそれである。絶対得票率の高い順から20%が濃く色の塗りつぶされた地域。点の部分が低い方から20%の地域である。
 革新が強いといわれた県中南部地域、加須を中心にする県東北部のコメどころ、また東松山市を中心とする比企郡・西北部での得票率が高い。ここは後に、新自由クラブにいく山口敏夫氏の基盤であった。
 「革新県政」を誕生させた政治勢力は、社共を中心にする革新勢力にプラスして、農業を基盤にした保守層、県政の主流からはずされていた西北部の保守層だったことがわかる。
 次に、「地図2」を見てほしい。2回の自民不戦敗の後に闘われた84年の選挙では、東北部、西北部に加えて秩父地域を取り込んでいることがわかる。「うーん、なるほどなあ」という感じだった。12年の間に自民の支持基盤を食い荒らしたとも、実質上保守県政に変質したともいえる。
 次の88年には、上位にくるのはほとんど東北部である。比企郡がなくなる。新自由クラブが解党し、自民に復党。さらに比企郡出身の候補者を擁立し、山口氏は動きがとれなくなったことを反映している。

(2)保守県政の誕生と変貌

 92年には、保守が20年ぶりに県政を奪取する。「畑知事は新都心開発をめぐり、金丸と手を組んで…」と全国的にも話題になった。いわゆる「土曜会談合疑惑」の中、畑知事は立候補を断念した。新知事は、参院議長だった土屋義彦氏(福田派)である。
 先ほど「グラフ2」で革新の郡部と市部の絶対得票率の割合を検討した。「グラフ4」は、保守のデータである。72年までは、郡部と市部の割合が一貫して 1.4くらいで安定している。一時下がり、84年に対立候補を立てて以降、96年までは郡部の割合が一貫して上がっている。保守が県政を争いながら伝統的な支持基盤を固めなおし、92年に保守県政を誕生させたのだろう。そのあとの96年は過去最高の比率になっている。土屋・保守県政の1期目は伝統的なバラマキ政治を行ったものと思われる。
 だが、2000年になると、郡部の割合が劇的に下がっている。この問題が今回の分析で1番面白かった点である。
 土屋氏は2000年には、大幅に得票を伸ばしている。特に市部はほぼ2倍になっている。最初は、ダブル選挙の影響だと思っていたが、それだけだろうかとデータを眺め、あれこれ資料をつくってもみた。まず96年を100として保守の絶対得票率が上昇した地域を地図におとしてみると、県南部の人口が多い地域で得票率を伸ばしていることが分かった。
 そこで「96年から2000年への政治的変化は、何だろうか」を議論した。97年に現在の民主党が結成され、99年の県議選で9人の会派を結成し、保守県政を熱心に支持したのである。背景に連合労組の意向もあった。同時に行われた衆院選では、得票数でも議席数でも民主が自民を上回った。「連合や民主の票が土屋にいったのでは…」、「同時選挙になって投票に行ったいわゆる無党派層が民主推薦の土屋に入れたかも」と思い、民主の強い地域を地図におとし、保守が増やしたところと比較してみた。結果は「似ていなくもないな」という感じだった。これで全体を説明するには無理があることが分かった。
 次に、県内を5地区に分けてデータをとってみた。「グラフ5」である。
 各地域別に絶対得票率を集計し、56年を100にして指数化したものである。どの地域が伸びているかが分かる。ここでとても重要なヒントをつかんだ。
 96年から2000年にかけて中部地域の伸びが突出しているのである。中部地域というと何といっても浦和市、大宮市である。現在は与野市も含めてさいたま市になり、「新都心」(第4次全国総合開発計画の業務核都市)建設ということで、多額の財政が投入された。その結果、県財政は大幅に悪化し、各所にしわ寄せが進むのだが、「この影響かもしれない」となった。
 どういうデータをとればこの仮説が検証できるのか。議論の結果、「中部地域をさいたま市へ合併した3市とそれ以外に分けてみる。それを県全体の絶対得票率の推移と比較してみよう」となった。その結果が、「グラフ6」である。まさに予想した通りだった。
 3市とも県の平均伸び率を大きく上回り、与野、大宮両市は、3市以外の中部地域の伸び率を上回っている。県全体でも与野、大宮は3、4位。浦和は5位である。3市合併に消極的だった浦和は96年は38位だったが、それ以降合併を決断し、5位に急上昇する。
 同じ土屋県政であるが、1期目はバラマキ型政治で伝統的な保守基盤を固めた上で、2期目は「バランスをとった生活重視の県政」という旗印はそのまま、内容が大きく変わっているのではないかという推測を裏づけるものだった。
 IT(情報技術)化を核にして業務核都市をつくることに重点をおく1極集中政治である(ちなみに2000年の1、2位は鳩ヶ谷市、川口市であるが、両市は合併話が進んでいる。一方、川口市ではNHK跡地に「高度情報化社会の拠点をつくる」として、なりもの入りで県の事業として「SKIP」建設がすすんでいる)。
 また、紙面スペースの関係で県議選データは示せないが、保守が県政を奪還する前年(91年)県議選では自民党は議席数を伸ばしているが、次の99年は、議席を減らしている。かなり民主系に議席を奪われているのである。
 2000年の知事選を政党間の関係で見れば、民主党を取り込み事実上の連合政権をつくるという「策略型政治」の樹立であろう。この選挙で社民党は議席がゼロになってしまう。

二、経験の総括。研究を取り組んでの感想

 以上が、これまで選挙を検討してきて分かったことである。ささやかな一歩であるにしても貴重な前進だった。
 次にやることは、県民経済計算や国勢調査を分析しながら、政治と下部構造の関係を明らかにすることである。そして概括的にでも「県政をめぐる諸階級の相互関係の総体」を明らかにし、「県民のための県政樹立に向けた戦略計画」をより具体化する必要がある。われわれは、次の県委員会総会でこの課題を解決したい。
 また今回のデータ分析で学んだことは、まず、できるだけ多くの事実をつかんでいること、その上で「ああでもない、こうでもない」と議論することが、比較的深く、正しい結論に到達する上で重要だということだ。具体的にはコンピュータに豊富な情報を取り込むこと、および使いこなせるようになることである。また、集団的討議がきわめて重要だった。
 各県党の同志たちにも、期限を決めて集中的に努力することを勧めます。大いに経験を交流し合って県党の戦略的活動を前進させたい。


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