20000701


2000年6月25日施行の衆院総選挙の結果について

2000年7月1日
日本労働党中央委員会


 総選挙が終わり開票の結果が出た翌六月二十六日の新聞は、朝日や毎日は民主党の「躍進」、自民党や与党・自公保の「敗北」を大きく書き、読売や日経は、与党が「絶対過半数を獲得した」と書いた。とりあえず財界は、与党の絶対過半数の確保と民主党の適度の躍進に胸をなでおろし、政権が混乱することにならないようだとの感想をもらしている。
 だが幾千万の労働者、勤労諸階層、あるいは中小商工業者、つまり国民の大多数を占める有権者にとって、この総選挙はまさに「茶番劇」であった。
 この総選挙で、わが国と国民諸階級が当面している基本的な課題は争点にならず、与党は政策的内容を示さないまま、「自公保の『安定政権』か『混乱の民共政権』か」の選択を迫り、民主党はそれに対して「鳩・菅」政権と応え、自由党も共産党も社民党も「民主党とのなんらかの連携」でこたえねばならなかった。
 政策らしいまじめなものはなに一つなく、選挙目当てのでまかせで、自民党政調会長の亀井など、これらの悪党は、規制緩和反対や増税反対を言い、『評判の悪い森首相』の批判までして票をかすめ取った。民主党の鳩山は、憲法改定だけでなく、課税をもっと薄給の者にまで広げることを提案し、連合傘下の労働者をびっくりさせた。
 茶番劇は終わった。だが目前は悪政が続くだろうが、財界・支配層とってまた保守勢力・自民党やその追随者にとって不安は、尽きることがない。


1 議席配分、得票数・率など各党の消長

(1)各党の獲得議席数について

 まず与党自公保の議席数
 自民党は二百三十三議席(解散前二百七十一議席)で三十八議席減、衆議院の過半数二百四十一議席に届かなかった。
 公明党は、三十一議席(四十二議席)で十一議席減。
 保守党は、七議席(十八議席)で十一議席減。
 改革クラブは、五議席すべてを失った。
 与党全体で、解散前と比較して六十五議席の減となった。与党の議席占有率は解散前は六七%だったが、五六%に激減した。
 野党各党の議席数
 民主党は百二十七議席確保(解散前九十五議席)で三十二議席増。
 自由党は、二十二議席(十八議席)で四議席増。
 共産党は、二十議席(二十六議席)で六議席減。
 社民党は、十九議席(十四議席)で五議席増。
 その他の政党、無所属は解散前十議席が二十一議席となった。

(2)各党の得票数・率について
 次の表の通り。

各党の得票数・率(率は%)


2 総選挙の結果から何を読み取るか

 読み取りかたはいろいろあってよいし、当然である。財界は選挙の結果、政局の混乱は避け得たと見て「ほっ」としている。先のことはともかく、曙光がかすかに見えてきた景気が心配だからである。自公保の与党は激減したが、それでもまだ絶対過半数の維持はできたので政権にとどまれるし、内心はともかくその点を強調してみせる。消えたのもあるが、野党で減ったのは共産党だけで、他の野党は増えたからそれなりに理屈をつけて勝利を祝ってよいわけである。
 共産党にも理屈はある。「空前の反共謀略にやられた!」と。他人がやる反共謀略だから、やめてくれればよいが、共産党にとってはとにかく厄介な問題ではある。選挙にかかわれば、勝っても負けても、それなりの説明は必要となる。
 では、悪政が去り、善政が訪れることを待ち望む有権者の総選挙の総括というか評価はどうすればよいか、保守勢力・自民党と財界の支配するこの体制を転覆し、時代の転換という歴史の偉業をなし遂げようとするわれわれの評価はどうすればよいか。
 われわれには、現象面での一喜一憂ではなく長期的視点での評価が必要である。背後に隠されたすう勢こそ、われわれに確信を与える。敵を蔑視する根拠となり得るからである。

<1> 90年代に入ってこの茶番劇に参加しない棄権者が激増した

 今回は投票時間の二時間延長、不在者投票制度の簡素化、海外滞在者投票制度創設などさまざま制度をいじり、また、マスコミや企業、労働組合もさかんに「投票参加」のキャンペーンをはった。不在者投票だけでも五百五十万人あった。それでも史上二番目、六二%そこそこの低投票率となった。
 投票率が低いということは、選挙に参加しない棄権者が多いということだが、棄権者は九〇年代に入って激増した。五〇〜六〇年代にあった八回の総選挙での平均棄権者数は、約千五百万人であった。七〇〜八〇年代にあった六回の総選挙での平均棄権者数は、約二千四百万人であった。九〇年総選挙での棄権者数は、二千四百六十万人、九三年総選挙では、三千百七十万人、九六年総選挙ではさらに激増し、四千二百万人となった。今回の総選挙での大キャンペーンと制度の変更でも、これらの棄権者を選挙に参加させることはできなかった。
 棄権者は、九〇年代に入って激増したが、とくに九三年以降に激増し、現在のところ九〇年と比較して約千六百万人以上が新たな棄権者となった。この時期は、保守勢力・自民党が中間野党をたぶらかし、「政治策略型」政治に移行して権力を維持しはじめた時期と、ちょうど重なる。これまで、保守支配層は政権維持には成功したが、有権者の政治不信は政権党にはもちろん、野党にも、さらには政治システムそのものに向けられているのである。
 これの評価は分かれるところだが、多くの「政治学者」と財界、支配者、議会主義の擁護者たちが、不安になっていることだけは確かである。

<2> 与党(自公保)の敗北と自民党の衰退は覆うべくもない

 自公保連立に対する有権者の「評判がよくない」ことは知られていた。それにしても景気第一と、なりふりかまわず財政を投入し、「景気は曙光の兆し」という時期の総選挙での、与党合計六十五議席減という惨敗であった。自民党が二百七十一から三十八減らして二百三十三に、公明党が四十二議席から十一減らして三十一に、保守党が十八議席から十一減らして七議席に、そして五議席の改革クラブが消滅したことは、すでに述べた。
 なかでも自民党の三十八議席減は、自民党史上最大の減少幅で、しかも今回は、公明党支持基盤の創価学会から、小選挙区では、五百万〜六百万票の支援を受けていたのである。
 自民党は今回、小選挙区で二千四百九十五万票弱の得票数であったが、創価学会の支持がなければ千九百万票か、いずれにしても二千万票には満たないものとなっていた。だから実際の自民党はもっと集票力がなく、仮に推定して千九百五十万票と計算すると、自民党の歴史的な衰退ぶりは歴然となる。
 自民党は、六〇年代から八〇年代までの三十年間、得票率は平均四八・五三%、絶対得票率は三四・二三%であった。それが九〇年には、それぞれ四六・一四%、三三・五六%になった。九三年は、三六・六二%、二四・三四%であった。九六年には、三八・六三%、二二・三五%、今回の総選挙では、四〇・九七%、二四・八三%となっているが、先のような推定をしてみると、得票率は、三二・〇三%、絶対得票率は一九・四一%にしかならない。
 九六年からは小選挙区比例並立制での選挙だが、自民党の比例での得票率は三二・七六%、絶対得票率は一八・六四%だった。だが今回の選挙ではさらに落ち込んで、二八・三一%、一六・八七%になった。今や自民党を支持するものは、百人のうち十七人の支持者もいないのである。この党が創価学会の支持を受けながらも、議席の過半数を占め得なかったのは当然で、いまや自民党の衰退は覆うべくもない。
 さりながら、与党は議席を大幅に減らしたが、それでも二百七十一議席、絶対過半数を確保して政権に踏みとどまることができた。なぜか。その理由はいろいろと挙げることができる。
 なによりも小選挙区での公明党、創価学会の自民党への支持、選挙協力が功を奏した。また財界は、不安定な経済状況のもとで、とりあえず政権の安定と継続を強く望んでいた。経済危機は膨大な財政投入の結果、国民生活の実態は別にしても、とりあえず大企業家の経営で見る限り「小康状態」が実現していたからである。さらに、財界・保守層はもちろん、多くの有権者も、景気を気遣っていた。
 一方、小選挙区制度のもとでの最大野党民主党が、自民党離れの保守層有権者の十分な受け皿となり得ず、さらには税制問題での鳩山発言で、連合傘下の労働者も戸惑った。こうしたことにも助けられたからである。

<3>民主党のいわゆる躍進について

 「躍進」には、いろいろな要因が考えられるが、まず、この党が野党の第一党で、政権批判の第一の受け皿になりやすいこと、そしてまた実際に不十分ながら有権者の不満の受け皿となったことである。こうして、一人だけ当選するという小選挙区制度のもとでも、政権と政治不信の高まった条件下では、とくに都市部で当選できる可能性が十分にあった。
 九六年の選挙でこの党は、選挙区で百六十一人を立て、今回は選挙区で二百四十二人を立てた。前回に比して、大量の候補者を擁立すれば、比例票の総数はもちろん、小選挙区での一人当たりの票数の増加にも効果があることは、経験的にも確かめられていることである。それは今回の社民党の「健闘」ぶりでも、また、自由連合の結果からでも、はっきりとわかっている。
 民主党の、そこを狙っての大量候補者の擁立は、比例選での候補者一人当たりの平均得票数はたいして変わらないのに(前回は五万五千五百票で今回は五万七千票)得票率は一六・一%から二五・一八%に確実に増え、比例当選者も四十七人となった。
 小選挙区選でも効果があったとみられる。一人当たりの小選挙区得票数は、他の理由もあろうが、著しく増加した(前回は三万七千票余りだったが今回は、六万九千票を超えている)。そして、小選挙区では八十議席を獲得した。
 自民党や共産党は、候補者数が上限に張り付いているから、こうした効果はもう狙えないが、候補者数が少ない党は、当面はそれができるし、それだけとは言わないが、評価をめぐっての錯覚にも陥りやすいのである。
 また「躍進」には、連合の札付きの幹部たちが、二大政党体制をめざし「連合は、今回の選挙戦を日本の労働運動の命運を決する戦いだと位置づけ」て、総力で支援したことも響いたであろう。
 民主党支持は、もちろん連合の全体ではなく、一部は社民党を支持し、一部では相互に取引的に選挙協力を行って、けっして一丸となったものではなかったが、それでも相当程度の効果は上がったと見られる。
 それに、二大政党体制の実現をめざす支配層・マスコミも、民主党に陰に陽に大きな支援を行った。とくに投票日直前の「自民勝利か」という「世論調査結果」発表は、アナウンス効果十分だった。
 だが、にもかかわらず、有権者の自民ばなれ、八割を超すといわれた自公保政権批判の有権者を、十分に獲得することにはならなかった。とくに九〇年代に入って以降棄権者となった旧保守層、すなわち反自民化した商工業者や農民の層を引きつけきれなかった。むしろ、この党の「徹底した構造改革、規制撤廃」の主張は、都市と農村の反自民化した中間層の離反、反発を生むのに十分だった。
 また、憲法問題や所得税課税最低限引き下げ提唱などに、革新政治を望む支持層、有権者は、戸惑いを隠せなかった。それに、この党の政策は、なによりもリストラで苦しむ労働者や失業者の要求にこたえるものではなかった。
 規制撤廃、あるいは所得税課税最低限の引き下げなどの主張は、都市富裕層、労働者の上層をねらった政策提起、この党の支持基盤形成のための階級政策であったから、都市部でのいくらかの「躍進」にはつながった。ある程度の効果はあった。だが都市部での、多くの無党派・棄権者層を含む政治不信を持った人びとを引きつけ、選挙に参加させ、自党に投票させるような力はなかった。

<4>自由党は、健闘したと評価されている

 自由党は、保守勢力の党として、とりわけ安全保障と改革問題で、政策的な旗色を鮮明にして、自民党あるいは自公保政権批判者や飽き足らない保守層を、一定程度、引きつけて生き残り、与党に走った保守党は惨敗したのに、四議席を増やし健闘した。もちろんこの党は、野党ということにはなっているが、いつでも財界の走狗(そうく)であって、保守自民党の別働隊であることに変わりがない。

<5>共産党は惨敗し、「躍進」の限界が見えた

 組織政党とはいっても支持基盤はそんなになく、大体のところ五百万足らずであろう。この党の躍進は、もともと「浮動票」、無党派層に多くを依存していた。浮動層の多くは今回も棄権したが、一部は民主党、また少ない一部は社民党に流れた。それに、候補者数は上限いっぱいの三百人だから、もう増やしようがない。候補者数増の効果も狙えない。
 小選挙区比例並立制での選挙は前回からだが、小選挙区でも比例区でも得票率を減らし、議席数は二十六だったのが二十になって敗北した。
 不破は、後退の最大の要因は、「日本の選挙戦の歴史でも前例を見ない空前の謀略作戦」の結果だという。「謀略」は、当然あったであろう。だが、もともとこの問題は、二十一回大会決議の問題意識にも鮮明に出ていて、そのためにも「怖くない」共産党のイメージ作りが政権接近の核心問題に据えられていた。ところがいま不破は「選挙は、各政党が、主権者である有権者に政策を訴え、審判を仰ぐのが、議会制民主主義の基本」などと、泣きべそをかく。
 およそ歴史上、ゆきづまった支配層から謀略による攻撃を受けなかった、いくらかでも有力な反政府政党があっただろうか。不破は、支配層に謀略中止を懇願して、事態を打開するのであろうか。
 しかし、今回共産党が敗北した問題の核心はそこではない。政策と民主党への政治スタンスのあいまいさである。「政権選択が問われた選挙」という支配層のキャンペーンにのせられた共産党は、「よりまし政権論」にいちだんと傾斜した。自民党をたたきはしたが、他方で民主党との連携を重視し、また、マスコミと保守層を過剰に意識して、いちだんと「現実路線」をとった。有権者には「共産党らしさ」がほとんど見えなくなった。こうした結果、自民党から離れた「浮動票」は民主党にとどまるのが当然だった。社会党から離れ共産党を選択していた浮動層の一部には、社民党に戻ったものもいたに違いない。
 共産党が票を伸ばそうとすれば、自民党をたたくだけでなく、途中にある反自民政党、民主党などを暴露し、違いを鮮明にしなければ票は獲得できない。しかし、民主党をあまりたたけば「政権のための」連携は困難になる。議会主義政党に転落したすべての国の共産党が、遭遇するジレンマである。
 かつて社会党との間でこのジレンマに陥って、やがて社会党攻撃に狂奔し、すべてを棒に振ったが、いままた不破は、同じジレンマに直面した。議席の「躍進」の限界だが、政権共闘も、「なにもかも捨てなければ」道は開けまい。だから共産党は、民主党を実際以上に美化し、政権共闘を求めて、際限なく追随するだろう。

<6>社民党は健闘したが、再建の道は見えたのか

 この健闘、成果は、候補者本人と、中央の役員や事務局専従者、とりわけ全国の党員・支持者の奮闘の結果だが、それだけではない。特殊な政党状況にも依存していた。
 一方では、この間、社会党、社民党の右傾化や裏切りを口汚く批判して票をかすめ取ってきた共産党が、突如の現実路線で、原則的立場をできるだけあいまいにして、「共産党らしさ」をなくしたので、期待した人びとは「共産党よお前もか」となった。他方では、民主党が、憲法問題、あるいは所得税課税最低限引き下げ問題などで踏み込んで、「護憲」あるいは「生活危機突破」を願う支持層に戸惑いをもたらした。
 こうした事情が幸いし、社民党は一時的にしろ、左右両翼から票をむしり取られずにすんだ。いわば、他党の戦術に助けられて形成された状況下で、政策的にはみるべきものはなかったが、「護憲」の旗だけは鮮明であった。結果的に、民主党や共産党との違いをアピールできて、確かに効果があったであろう。
 また、前回よりも候補者を多く立てたことは、比例区で得票を増やし、当選者を増やす上で効果があった。社民党が小選挙区にできるだけ候補者を擁立しようと最後まで努力したのも、その効果を計算したからであることは間違いない。だからさらに候補者を増やせば、その分だけ得票と議席は一定の比率である程度までは増える。
 比例区で五百六十万票の支持、十九議席は前進に違いない。だが、そういえるのは崩壊の危機に陥った前回と比較するときだけである。それ以上ではない。九〇年選挙では千六百万票とっており、少なくとも一九五五年の社会党統一後は、一貫して一千万票の厚い支持層を形成していた。いうまでもなく議席はずっと多かった。
 だから評価は、この結果が、「再生、再建に向けての確かな礎」となるかどうかである。問題は、特殊な政党状況に助けられたというだけではない。政党として肝心な政策問題で、「護憲」以外にはみるべきものはなかった。また、旧社会党以来の厚い活動家層、支持層が広く共同して積極的に動いたわけでない。とりわけ伝統的な、最大の支持基盤である労働組合が動いたのは一部にすぎない。連合指導部の締めつけの下で労働組合の側にも難しさがあったが、要するに燃えなかった。それに、「市民との絆(きずな)」ということで社民党中央の側から門戸を閉ざす傾向があったともいわれる。この社民党は、労働組合との絆なしにやっていけるのであろうか。
 こうした弱点からして限界も明らかで、この「前進」は一時的なものすぎない。


3 「真に闘える砦」を築かなければならない

<1>労働者階級、国民諸階層にとって本質的問題は何か

 戦後、悪政の限りを尽くしたわが国の保守党・自民党の単独支配は、九三年の総選挙の結果として終わり、細川連立政権となった。この政権は自民党以上に、自民党が掲げていた困難な課題を処理したが、それでも「反自民」の政権で、かつ連立時代への移行であることは確かであった。その後、羽田、村山と続くが、わが国保守勢力はさまざまな策略を弄し、早くも九四年六月に、社会党村山内閣のもとで、自民党が政権の実質上の中枢に返り咲き、九六年村山が政権を投げ出し、その「禅譲」によって橋本連立政権が誕生した。社民党は「さきがけ」とともにこの自民党政権を支え続けた。
 橋本政権の後をついで自民党は小渕政権をつくり、その後小渕は、自自、自自公、自公保政権、小渕の後をついで自公保連立の森政権となった。この流れの中で見るとどうなるか。自民党の策略はいうまでもないが、中間政党の側にも、政権につくためには平気で有権者を裏切り、取引するという体質が特徴となった。
 自由党はいうまでもなく、民主党の議員たちの多くも、社民党も、いま反自民の野党とはいうが、こうした流れに深くかかわっている。どの党も、どの指導的政治家も、九三年以降の裏切りを国民の前に真摯(しんし)に自己批判した党はまだひとつもない。もちろん社民党も例外でない。共産党だけが政権という意味では当時らち外だったが、いま、連立政権に入る前から裏切り、有権者からそのうさん臭さを見抜かれた。
 しかも、この総選挙ではどの党も、政策的には国民大多数が当面している真の課題を争点とはしなかった。社民党も「護憲」を除けば、他の党派との違いはない。
 だから、社民党が健闘したとか、あるいは民主党が躍進したなどというが、国民の大多数が望む新しい政治の展望が見えないのは当然である。
 これが労働者と国民諸階層にとって本質的で最大の問題、関心事である。

<2>わが国の政治が当面してる課題は何か

 選挙の結果は実質でいえば、安定どころではない。政権基盤はいちだんと不安定さを増し、財界とわが国支配層にとって、難問山積である。
 九三年に自民党が単独過半数を失い、わが国政治は連立の時期に入った。細川、羽田、村山と連立政権ができたが、実質は保守勢力あるいは自民党が握っていた。戦後しばらくして成立し三十八年間も続いた自民党長期政権の政治手法は限界に達し、以降自民党は、中間政党の助けを借り利用し、政治支配の危機を乗り切ってきた。政治不信はいっそう増大した。こうした策略型連立政治の限界も今回の選挙の結果、相当に見えてきた。
 その財界は、自民党長期政権に代わる政治体制として、「基本政策を同じくする保守二大政党制」を、九〇年代に入って以降一貫して追求してきている。この選挙の経過と結果で、保守二大政党制への流れが進んだとの評価もある。今後、支配層とその手先どもの画策も強まるであろう。たとえば、日本商工会議所は会頭談話で、「比例代表制と並立させたため小政党も残ることになった」と選挙制度の見直しを提起した。
 政党の側でも状況はある程度進んだ。一方の鳩山民主党代表は、「二大政党政治の定着に向けて大きな一歩」とこの選挙結果を評価したが、民主党は選挙前から終始この方向を意識的に進めた。憲法問題をはじめその政策は、民主党のめざす「二大政党政治」が、保革対決という意味での二大政党ではなく、同じ保守の基本政策の上での二大政党体制であることを明瞭にした。
 最大の支持母体、連合も、この方向に「命運」をかけ、結果を「二大政党的政治体制へ一歩推し進め」たと評価した。鷲尾会長は、連合としてこの方向をさらに進めることを表明した。
 アメリカ型の二大政党制での民主党と労働運動の関係をめざすということで、民主党指導部、それに連合指導部は踏み込んでいる。
 今では、自民党単独では政権は不可能である。森首相は選挙前、「自公保新党」を「すぐではないが」といいながら表明し、保守勢力新党構想を隠さなかった。保守党では自民党への合流論も強まっている。公明党は、大敗したにもかかわらずそれほどの混乱を見せず、責任問題も浮上していない。ここからも推測できるが、自民党との政権共闘を、支持基盤である創価学会指導部も含めて、相当将来までの判断をもって決断、踏み込んでいると推測できる。
 だが、二大政党制に至るには、障害も大きい。社民党が辛うじて生き残ったこと、なによりも民主党が基盤と狙う連合労働運動内部で激しい闘争が不可避なことである。アメリカ型の労働運動と二大政党制を安定させるほど、わが国経済の基盤は深く強固ではない。徴兵制改憲の鳩山路線との矛盾は民主党内にも噴き出すだろう。また、下層の労働者や商工業者を組織する創価学会が、矛盾と混乱なく保守新党の基盤となり得るだろうか。
 保守勢力の側にもさまざまで、深刻な問題が残っている。
 いずれにしても、われわれにとって保守二大政党制をめざす支配層の策略を打ち破る闘いは、当面の非常に重要な政治闘争である。

<3>「真に闘える砦」を築かなくてはならない!

 情勢は非常に重要で切迫した局面であること、闘う側にとって、戦線をどう形成するか、闘える砦(とりで)をどう築くのか、「この問題であること」には、多くの人びとの間での一致、あるいは共感がすでにある。
 わが党はすでに次のように呼びかけた。「闘いの前進と闘う人びとの団結を願って、かつての社会党員、その支持者、闘っている諸党派の人びと、そして労働者階級の皆さんに訴える。目前の野党の現状に対する幻想を捨て、真に闘える砦を築こうではないか。国政選挙でも、より大きな勢力を結集し『新しい、選挙のための政党』の準備を急ごうではないか」と。
 闘う上で、もっと重要な力は労働運動であり、広範な勢力の連携による国民運動である。わが党はそのために共同できる人びととの連携、共同した闘いを望んでいる。国民運動の発展に全力を尽くしてもいる。
 だが、そうした運動の発展のためにも、展望のある、構想も雄大な、新しい「選挙のための党」と、社民勢力の問題は非常に重要である。旧社会党系、いわゆる社民勢力を中心に、闘いを望み、かつ団結できる人びとの大連合によって、護憲だけでなく安保破棄や、市場万能主義に反対し社会的経済的規制問題など、国民大多数が直面している真の課題を政策的一致点とした、国政選挙に登場できる「新しい政党」の結成が差し迫って必要で、わが党はそれを期待している。
 とは言ってもこの問題は、第一義的には旧社会党系の人びとの課題である。社民党や新社会党、党を離れた人、いわゆる社民勢力の人びとがその気にならねば、解決できる問題ではない。しかしその成否は、すでに述べたような国民的課題を闘う上で、また、敵の保守二大政党制の画策を打ち破るためにも、きわめて重要な位置を占めるので、われわれも無関心ではいられない。
 社民勢力の再結集や広範な団結の基礎は、政策面での正しさであり、過去の誤りへの謙虚な反省である。社民党を中心に旧社会党系の全国の心ある活動家たちがとりわけ求めているのは、社会党を滅ぼした村山時代への真摯な反省であり、安保条約堅持など政策面の誤りの自己批判である。また、ガット・ウルグアイラウンドに関連したコメの市場開放措置容認は社会党勢力と農民の団結を著しく阻害した。消費税率引き上げは、反自民化していた商工業者の社会党・社民党からの離反を招いた。こうした問題でも真摯な自己批判が必要だが、いまだに解決してはいない。土井たか子氏にはそれはできないであろう。
 なぜなら、土井氏も自己批判を避け難いからである。土井氏は九三年総選挙の直後に、小沢らの画策に乗せられて、衆議院議長に就任しているからである。この問題は、当時の社会党を閣内に引き入れる小沢らの策略の一部、左派対策であって、山花、村山と続く社民党の裏切りと転落に連なっているものである。いわばその第一号で、村山批判が土井氏にできないのは当然かもしれない。
 誰しも誤りは犯す。だが、土井党首の社民党中央が、これ以上問題をあいまいに先送りするならば、それは国民全体に責任をとらないことを意味している。十九議席で「前進」などと喜んでいても、現実の力にはならない。問題は、一党一派のいくらかの前進ではない。国民の全体、国の将来にかかわることだからである。
 僥倖(ぎょうこう)を当てにすると、次の局面でより大きなしっぺ返しを食うことになる。支配層がこの危機を乗り切ることになり、社民党はさらに裏切りを重ねることになる。
 すでにみたように、国民各層、とりわけリストラに苦しむ労働者はもちろんのこと、たくさんの中小商工業者や農民が、自民党政治に苦しめられ離反し、野党にも繰り返し裏切られ、無党派、棄権層となりながらも、政治の転換、自分たちのための政治を切実に望んでいる。
 観点をはっきりさせ、広範な団結のなかに道を求めれば、そこには強大な「新しい政党」の条件は大いにある。活路はある。
 「護憲」「市民派」「女性の党」などばかりが目立つようでは、真に労働者や勤労諸階級、農民や商工業者の力となり得ないし、国民大多数の負託にこたえる政党に成長することはできない。
 深刻に苦しみ政治の転換を望む国民の期待にこたえてこそ、政党は躍進できるのである。「真に闘える砦」を共同して築こう!


4 むすび

 わが党は、総選挙が終わった今、あらためて全国の社民党、新社会党、かつての社会党員の皆さんに、あるいは支持者、とりわけ労働組合の皆さんに、同志的な連帯のあいさつを送る! その気になれば、活路はある、と!


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