990725


三光作戦・関東大震災時の虐殺 犠牲の村(中国)と交流継続

反動と闘ってこそ連帯できる

「中国山地教育を支援する会」世話人
仁木 ふみ子氏に聞く


 「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」とする法案が七月二十二日、衆議院を通過した。反動政治が急速に進む中、アジアとの友好運動はますます重要になっている。元日教組婦人部長で、中国の山村地域との友好交流運動に取り組んでいる仁木ふみ子氏に、交流のあり方や「日の丸・君が代」法制化問題について聞いた。


 「中国山地教育を支援する会」は、もとは関東大震災時に殺された中国人労働者を悼む会として九一年にスタートしました。

 関東大震災時に朝鮮人がたくさん殺されたことは知られていますが、東京・江東区で中国人も約六百人殺されました。殺された人は浙江省温州の貧しい山村から出稼ぎにきた労働者がほとんどで、村は労働力を失い、戦後も貧しさが続いていました。そのため、子どもたちの大半は小学校三年以前に中退しなければならない状況でした。せめて、義務教育を終え人並みの人生のスタートラインに立たせたいと、九一年から募金を始め、毎年三百五十人ほどの子どもに助学金を出しています。小学三年生以降は村から離れた学校になるので、寄宿舎を建てたり、中学校に職業教育の一環としてミシンを寄贈して、日本から家庭科の先生に行ってもらって技術指導しています。ミシンの技術があると、中卒でも学校の教師より賃金がよいのです。でも、どの村でもミシンでよいわけでなく、地域の産業にあわせなければいけません。

 もう一つ、北京近くの興隆県を支援しています。ここは「満州国」に併合され、「三光作戦」(殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす)のひどかった地域です。

 「満州国」は「五族協和、王道楽土」のスローガンを掲げていましたが、実際は、山は住民を排除して無人区にされ、人びとは住むところもなく、冬にはマイナス三〇度にもなるところで草ぶきの屋根の下で暮らし、餓死、凍死、病死で一九三九年に十六万人いた人口は、四五年には十万五千人まで減りました。

 またいろいろな細菌実験も行われ、いろいろな伝染病が県内に広がったり、毒ガスや風船爆弾の実験もされたようです。また山へ入った村人は見せしめに殺されました。殺人抗という、川沿いに山で捕まえてきた人を殺す場所があって、そこは今でも地面を掘れば骨が出て来ます。日本軍が山を焼き払ったため、今でも雨が降れば「石流」が発生します。被害が未だに続いているのです。

 興隆県へは九六年から中学校寄宿舎、校舎建設、小学校の校舎の増改築の支援を始め、九七年から毎年小中高大学の教師の訪問団を出し、教材を寄贈し、現地の先生と授業交流や座談会、村の古老たちにかつてここで何があったかを話してもらっています。帰国後はそれを授業を通して子どもたちに伝えています。自由主義史観に対抗するには、事実を知る人が増えることが大事だと思います。

 中国では、日本軍と日本人民は違うと教育し、それがあって日本との国交正常化をしたわけですが、日本人が過去の事実に目をふさいでいてよいわけはありません。

 「被害者、加害者」という関係ではなくて、共通に事実を知って明日の友情をつくっていくことが大事です。日本の平和教育は被害の歴史から始まりますが、これを超えて、加害の歴史、抵抗の歴史を学ぶとき、平和教育はほんものになります。戦争を引き起こす勢力と闘ってこそ、国境を超えて人民が連帯できると思います。

「日の丸・君が代」は侵略の象徴

 「日の丸・君が代」の問題は、まず一つは敗戦直後に新たな国旗と国歌を制定すべきだったということです。

 それから、「世間の常識が認めている」といわれますが、七〇年代の終わり、鹿児島県のある町で日の丸掲揚が強制された例があります。掲げなければ村八分にされていく、合意と言うのはそういうことで、戦争中と同じシステムです。

 毎日新聞の写真で、万里の長城に日本軍が並び、日の丸を掲げて君が代を歌っている写真があります。一九三二年十二月山海関でのことです。中国だけでなく、アジアの人びとが「日の丸・君が代」にどのような思いをもっているのか、想像力を働かせることが必要です。

 結局、小渕首相は自信がないから天皇をかつぎ、その権威の下に安泰でいたいのでしょう。迷惑しているのは天皇家の方々でしょう。一人ひとりが立ち上がって、いま「ノー」と言わなければなりません。


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