980525


ルポ

一万六千人、普天間基地を包囲

な米軍基地 怒りは当然


 五月十五日で本土復帰二十六年を迎えた沖縄県では、本土からの七百人を含め一万六千人が参加した普天間基地包囲行動や平和行進、嘉手納基地前行動などが闘われた。九五年九月の米兵による少女暴行事件を契機に沖縄の米軍基地、日米安保が改めて政治の焦点となり、沖縄県民の闘いは全国の反基地・平和闘争と結びつき、米国の東アジア戦略に追随する政府を揺るがしている。普天間基地無条件返還、海上ヘリポート基地反対などを焦点に沖縄の闘いは、五・一五を一つのヤマ場に力強く前進した。平和行進などに参加したルポを紹介する。(編集部・水野杏介)


 普天間基地のさくにへばりついていた私は、突然の雨に思わず天をふり仰いだ。「このために三日間、六十キロも歩いたんだ、やんでくれ!」

 もちろん、空はこたえるはずもなく、新聞社や県警のヘリコプターが舞っているだけである。数秒間で、私のGパンはみるみる濡れていく。

【五月十四日】

 沖縄の空は青く暑かった。

 五・一五平和行進団の結団式会場には、本土から七百人の労働者が参加している。二十代の若い労働者が目立つ。

 主催者を代表し、新垣善春・沖縄平和運動センター議長が「復帰から二十六年が経過しても、沖縄には広大な米軍基地が居座っている。新ガイドラインや関連法案制定の動きは本土の沖縄化。平和行進と普天間基地包囲行動を成功させよう」と呼びかけた。

 東、西、南の各コースの本土側、沖縄側の行進団正副団長に、タスキが手渡される。最後に、参加者全員による団結ガンバロウを行った。いよいよ明日からだ。

【五月十五日】

 小雨が降る中、西コースの出発地点である名護市役所に到着した。沖縄に加え全国各地から合流した約三百人の参加者で、出発式が始まる。

 山川勇・平和運動センター副議長は「二十六年前の本土復帰の日も大雨だった。基地の現状はなんら変わっていないことを、行進を通して知ってほしい。一人の落後者も出さず、がんばろう」と参加者を激励した。

 行進中は「日米安保条約破棄!」「海上ヘリ基地反対!」などのシュプレヒコール、宣伝カーから市民への呼びかけ、テープによる労働歌を交代で流す。

 「聞け万国の労働者」「インターナショナル」などの労働歌は、私にはなじみの歌だが、となりを歩く人が「さっきから流れている歌は何ですか」と尋ねてくる。参加者は二十代の青年労働者が多いが、労働組合も労働歌を歌わなくなっているのだろうか。コールは、本土からの参加者が交代でマイクを握る。

 名護の市街地を抜ける頃、雨がやんだ。休憩では地元実行委員会の方々が、麦茶のサービスをしてくれる。

 恩納村に入る頃、振り返ると最後尾が見えない。どんどん合流しているようで、六百人ほどになっている。

 インブビーチでの昼食の時、海の方を見ると、オヤオヤ、いきなり服を脱ぎだした参加者が…。パンツも脱ぎ捨てた。アッと思う間もなく、前を隠しながら海に向かって走り出し、ザブンと飛び込む。他の参加者からはヤンヤの喝さい。見ていたこちらまで涼しくなった。

 午後、急に日差しが強くなり、参加者の顔が赤くなっていく。沿道のハイビスカスの花の美しさが、つかの間、疲れを忘れさせてくれる。

【五月十六日】

 曇り、ときどき小雨。

 ほぼ五キロごとに給水休憩などがあるだけではなく、学校の横を通るときには、教職員や生徒たちが沿道に出てきて手を振り、激励してくれる。アイスキャンディーの差し入れもあり、ありがたい。

 休憩をとった恩納村の仲泊遺跡は、古代貝塚時代中・後期のもの。沖縄の古代遺跡の大部分は未調査だが、これは広大な米軍基地が居座っているからだ。ここにも、米軍基地が影を落としている。

 午後、基地内にありながら耕作が「黙認」されている一面の砂糖キビ畑の中を歩く。不安定な耕作環境だが、実質的に基地の一部返還を勝ち取っているともいえる。

 米軍基地内にある読谷村役場で休憩。読谷村では沿道の声援が目立って増えた。沖縄戦で最初に米軍が上陸し、悲惨な集団自決が強制された地域だけに、平和への思いが強いのだろう。横道の奥で一生懸命手を振る高齢者が目立つ。こちらも手を振る。

 黙認耕作地を抜け、楚辺通信所(ゾウのオリ)、トリイ通信基地の前で抗議のシュプレヒコール。

 二日間で五十キロ以上を歩いた疲れが出て、へたり込んでしまった。

【五月十七日】

 最終日、朝から沖縄らしい日差しが照りつけている。

 三日間で、参加者は別人と思えるほど日焼けしている。足を引きずる人も多いが、みな懸命に歩いている。参加者は千人をゆうに超えていた。

 北谷町の休憩では、「沖縄ぜんざい」がでた。あまり甘くなく、冷たくておいしい。

 市街地を歩くため、信号が多い。隊列は駆け足で隊列の最後尾が信号を超えるまで交差点を走り抜ける。もうヤケで、声を張り上げて走る。

 沿道には、嘉手納基地、キャンプ桑江、キャンプ・フォスター、そして普天間基地と、基地が止めどなく続く。参加者が疲れて歩みが遅いからではない。基地がそれほど大きいのだ。

 誰かが言っていた。「目の前でこれだけ広い土地を取られたら、怒るのは当たり前」。そうだ。沖縄の怒りの原点はそこにある。これを実感し、全国に伝えるため、ここにいるのだ。各基地前で、怒りをこめてシュプレヒコール。「基地撤去!」を叫ぶ声は、まったく衰えない。

 名護を出発し六十五キロ、左手に見えてきた普天間基地は、宜野湾の市街地から少し小高くなった丘の上にある。いよいよ到着。包囲行動は何としても成功させたい。

【普天間基地包囲】

 包囲行動では、物理的に包囲が不可能な場所を除き、基地の周囲十一・五キロを、人間の鎖で包囲する。

 午後二時、雨の中第一回目の包囲行動の時間だ。実行委員会の指示で基地に向かって手をつなぐ。「三、二、一、ゼロ」。手を振り上げ、包囲をアピールする。しかし「今回の包囲はうまくいかなかった模様です」という放送が。どこが切れたのだろう。雨のせいか。次の包囲が二十分後に迫る。

 雨がやんだ。二度目の包囲を待つ間にも、次々と人が合流してくる。子ども連れが多い。行進の際の子どもたちの歓迎ともあわせ、沖縄の平和運動の底の深さを実感する。

 二度目の包囲行動の時間。今度は基地を背に包囲だ。

 「成功!」

 大きな拍手がわき起こる。

 三度目の包囲行動を前に、大阪市職労の労働者がマイクを握り、基地に向かってシュプレヒコールを行う。「普天間基地を返せ!」「海上ヘリ基地反対!」「日米安保条約破棄!」。三日間、何千回もこぶしを上げたコールだ。

 三回目の包囲も成功。行動が終わった頃、ずぶ濡れだった私のGパンはすっかり乾いていた…。

 行動を終え東京に帰ってきた私は、雨の中成功した包囲行動を思い出すとき、ある人が言っていたことを思い出す。「沖縄では、時代が動くときには必ず雨が降る」。闘いは、日米政府を確実に追いつめている。


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