20000101


神奈川

産廃裁判で住民勝訴 やられたらやり返すぞ

ダック産廃焼却施設建設反対対策協議会 田中 康介会長


 神奈川県小田原市の産業廃棄物処理施設建設をめぐり、県の建設許可取り消しを求めていた住民は、九九年十一月、横浜地裁で県の違法を認める勝利の判決を勝ちとった。県は高裁に控訴することを決めたが、この判決は全国で産廃問題で闘う人びとを勇気づけるものだ。住民の大衆行動をもとに運動を進めた田中康介会長に話を聞いた。


協議会作り裁判闘争へ

 県が産廃処理業者のダック社の建設許可申請を受理したのが九二年七月で、九三年三月には、起工式までやられていた。それまでは自治会長が県に陳情したり、業者と交渉していたのですが、ここまできたら限界だということで、九三年四月、若い人たちが中心になって対策協議会を立ち上げました。
 対策協議会のメンバーにはいろんな人がいる。私は農家ですが、植木屋さんがいたり、商売している人もいる。異業種交流グループの中で、焼却場問題で何度か勉強会をやっていたんですね。
 対策協議会は立ち上がったものの、どんどん工事が進んでいく。こういう場合の反対運動はどういうのがあるかと弁護士に相談しました。
 仮処分申請でやるしかないだろうという結論に達しました。
 内部では「裁判をやって、これからどうするんだ。勝つ見込みがあるのか。逆に訴えられるんじゃないのか」といういろんな話が出てくる。やくざがらみの人がチラチラしはじめたり。不安もありましたが、「仮処分でいこう。どうせ申し立てをするんだったら、大勢でやるべえ」ということになりました。
 各地区で自治会長さんに説明会を設定してもらって、六百五十人の申立人から運動がスタートしました。
 内部をまとめるということが一番大変だったなという気がします。最終的には一次〜四次までやって、八百五十人ぐらいになりました。
 基礎工事が終わって本体が入りそうだという時に、これは黙っててはいけないから座り込みでもなんでもやって阻止しようということになりました。夜の部、昼の部と手分けして泊まりこんで待っていたら、しょっぱなに来たんです。
 大型トラック十台くらいが山の上のほうから来た。座り込んだ住民七十〜八十人と業者が四日間ほどにらみあった。現地には小田原市が来て調整にあたりましたが、物別れです。物別れの瞬間に、業者が女性たちをごぼう抜きして、けが人が出たんです。

県庁に座り込んで抗議

 住民がぶつかりあっているのに、県は現場なんて見ていない。その時に神奈川県に対する怒りがすごく出てきて「神奈川県はなにをやっているのか!」ということになった。それで「県庁に行け」ということで、県庁の中庭に三回、座り込みました。はじめはバス二台、次に三台と、だんだん数を多くしていった。三百人くらいが座り込んで、「長洲知事出てこい」とやりました。今は岡崎知事に変わりましたが、神奈川県知事が許可したわけですから、相手はあくまでも神奈川県知事です。
 皆さんがまとまっていたから、ここまでやってこれたんですね。地元の運動は運動、裁判は裁判ということでいろんなことをやりながら進めてきました

狙われる農村地域

 全国的にゴミ処理施設が農村地帯に入ってきています。それは農業の衰退と深く関係している。後継者がいない中で、植林しても木は安い。山林なら売れるから、買う人がいれば手放そうとなるわけです。
 小田原市は交通の便もよいし、山もある。「迷惑施設」みたいなものがどんどんできているから、ここなら大丈夫だろうということで産廃業者が狙うんです。ゴミ処理施設みたいなものが集中してしまう地域的な要素がある。
 やってみて痛感しましたが、反対だと言っていないと、簡単にできてしまう。私たちが闘うことで、後に続くのを抑えていると思います。
 また、私たちが反対運動をやることによって、ゴミ政策が少し変わりはじめています。再利用するとか、製造段階からリサイクルしやすいような材料を使う。そういう方向にやっとメーカー側も動き始めています。

住民運動は息の長い闘い

 県は十二月七日に控訴を決めました。彼らにもメンツがあるんでしょうが、相当手詰まりです。
 今年の一月三十一日に、県の許可期限が切れます。更新のときにどうなるか。設置認可をとらずにまたやるのか。「やったらこっちもやるぞ」ということです。
 裁判を七年も八年もやってきて、その結果がどう出るかはなかなか予想できません。負けたとしても、いろんな意味で闘い方がある。住民運動は息の長い闘いで、家族にも負担をかけているし、皆さんのご協力があってやれる。
 私ががんばっているのは、焼却工場のすぐ近くに自分の茶畑があるからです。
 闘いは生活のためです。コストの安い方に流れていく日本全体の経済ベースの生き方が、問われていると思います。


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