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「女性のピースライン訪朝団」に参加して

20世紀中に侵略の清算を

東京・荒川日朝婦人の集い 中原 純子


 「朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会」が発足二十五周年を記念して呼びかけた「日本と朝鮮をつなぐ女性のピースライン訪朝団」の一員として、九月十六〜二十三日まで、朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)を訪問しました。
 今回の訪朝団は、同代表で社民党副代表でもある清水澄子参議院議員を団長として、日朝友好運動に長年かかわってきた同会の皆さんをはじめ、議員、日本婦人会議、労働組合、国際ボランティアなど六十八人の全国の女性たちで構成されました。
私は、東京下町の荒川区で発足二十三年になる「荒川日朝婦人の集い」世話人代表として、今回の訪朝団に参加しました。同「集い」では、九七年に区民実行委員会を呼びかけて共和国に食料支援を行い、昨年八月末の「テポドン騒動」の時は、日朝の女性たちが緊急に集まり、マスコミ報道に惑わされず冷静な対応が必要であることを確認しました。
しかし日本政府はこの間、「北朝鮮の脅威」をあおることで緊張関係をつくり出し、朝鮮半島有事には米軍を後方支援する「新ガイドライン」を策定、「周辺事態法」を成立させるなど、日朝関係が大変厳しい情勢下での訪朝となりました。ちなみに、日本と国交のない共和国への旅券に記載されていた渡航目的は「公務」です。

指導員の発言に緊張

昨年からの制裁措置によって、食糧支援凍結などとあわせ、直行便がストップされている。そのため、新潟空港発ウラジオストック経由で五時間半かかり、平壌空港に到着しました。空路岡山から農業技術指導で訪朝される方々が同乗しましたが、民間レベルでの交流は着実に続けられています。
 ホテルに向かうバスでは、受け入れ団体であり全行程を通訳を兼ねて同行してくださる朝鮮対外文化連絡協会の指導員の皆さんと、平壌外国語大学の学生さんから歓迎のあいさつと自己紹介がありました。その際、「日本政府のわが国に対する敵視政策で朝日関係がかつてなく厳しいこの時期の訪問を心から歓迎します。どうぞ写真などご自由にお撮りください。しかし、日本に対するわが国人民の気持ちにも大変厳しい現状があるので、一人の外出は控えて下さい」との言葉に、緊張した始まりとなりました。

頭よぎる「ミルク代」のこと

 深夜〇時に高麗ホテルの部屋にようやく落ち着くことができました。共和国の第一印象は、エネルギー不足の影響のためか街灯が少なく、ホテルの廊下の電気も消してあるなど、夜でもやたらに明る過ぎる日本から来た私たちには、とても暗く感じました。
 高層住宅が立ち並ぶ平壌市内で、ニワトリの鳴き声がひびく静かな朝を迎えました。自動車も自転車も少ない交差点の中央でキビキビと交通整理をする青い制服の女性がほほ笑ましく思えました。はじめ地下鉄の入口かと思ってながめていた交差点にある地下へ降りる階段は、横断地下道であったことが、翌朝の散歩でわかりました。
 朝食から部屋にもどると、にぎやかな音が聞こえます。窓を開けてみると、向かい側の道路に十人程の女性たちの楽団が演奏をしていました。毎朝八時になると始まる近くの職場で働く女性たちの演奏は「今日も一日がんばろう!」と呼びかけているようでした。なお、労働者の勤務時間は、八時〜十八時ないしは九時〜十九時で、昼休みは二時間の八時間労働です。
 秋晴れの中、チュチェ思想塔の展望台から南へと流れる大同江の眺めは、とても美しいものでした。
 そこで、朝鮮戦争の時に、人口四十万人の平壌に米軍が四十万七千個の爆弾を投下したと聞きました。その時、父から朝鮮戦争の特需で私のミルク代が助かったと聞かされたことが頭をよぎりました。
 七泊八日の行程半ば過ぎに体調をくずし、白頭山には行けませんでしたが、各国大使館(百三十八カ国と国交がある)が立ち並び、色とりどりの国旗がはためく通称「大使館村」にある、「親善病院」に一晩入院しました。
 手厚い看護のおかげで翌日には元気になり、金容淳朝鮮労働党書記との会見から行動にもどり、千里馬文化会館で行われた「日朝女性連帯集会」にも参加することができました。

自主外交の必要性を痛感

 意外に思ったこともいくつかあります。その一つは、政党は朝鮮労働党のほかに、友党である社会民主党と、東学が発展した天道教を背景にした青友党があり、十七歳から選挙権があること。朝鮮人民軍は十六歳からの志願制であること。また、宗教は仏教やキリスト教(朝鮮戦争後、教会が復興されている)など自由であることです。
 一世紀に及ぶ日本の侵略と民族分断の中で、朝鮮戦争以降今も続く米国の経済制裁と、九〇年代に入り、ソ連・東欧の崩壊が及ぼした経済への影響ははかり知れません。それに加え、九五年から毎年続く全国的規模の自然災害は、共和国の経済にさらに打撃を与え、エネルギー不足・食料不足など厳しい現状を目のあたりにしました。
 移動中、WFP(国連世界食糧計画)の自動車を見かけました。四十六人の職員が五地域十二事務所に常駐し、食糧支援活動に携わっているとのことです。民間レベルでの支援活動は続けられていますが、日本政府も早く制裁を解除して支援すべきでしょう。
 最後の日に、人口三十万人の七割が離散家族という、開城市にある板門店に行き、南北の営所が対峙(たいじ)する軍事境界線の直前まで行きました。私が生まれる二年前に始まった朝鮮戦争は停戦中なのです!
 朝鮮革命博物館で学んだ抗日パルチザンの歴史は、日本が朝鮮を植民地とした歴史であり、十二歳の時に日本軍により「慰安婦」にされたハルモニの証言と広島・長崎でそれぞれ被爆した二人の朝鮮人被爆者のお話はつらく悲しく、「二十世紀に起こしたことは、二十世紀中に解決を!」と、滞在中いくども聞いた言葉のとおり、日本が侵略の歴史を清算することの大切さを強く確認しました。
 そのためにも、米国に追随するのでなく、侵略の歴史を清算し国交正常化を実現させる自主外交こそ、二十一世紀にアジアの一員として生きる日本の進むべき道であると、改めて確信しました。自主外交を求める世論づくりを、地域から幅広く進めていきたいと思います。 


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