990925


31年前の金嬉老事件

鳥打ち帽が訴えている

清水市 岸山 隆


 「金嬉老(キム・ヒロ)服役囚が韓国へ仮出獄」という新聞記事を読んだとき、最初に感じたのは「あれから、三十一年もたったのか」という懐かしさにも似た感情だった。
 事件はまず、清水で起こった。一九六八年二月二十日の夜、暴力団員二人をライフルで射殺したキャバレーの場所には、その昔、小さなお寺と幼稚園があった。幼稚園の名前は平和幼稚園という。私は、そこの卒園生である。
 キャバレーから県警の非常線をかいくぐって逃走し、山あいの旅館に立てこもった数日間というもの、地元の新聞は、この事件で埋めつくされていた。
 しかし、まだ幼かった私には、立てこもりのなかで訴えたメッセージを理解する力はなかった。それでも、単なる殺人事件とは違うということは感じていた。そして、立てこもりのなかで常にかぶっていた鳥打ち帽が強烈な印象として残った。
 だから、出獄を伝えるテレビニュースが映し出した鳥打ち帽は、時間が三十一年前に戻ったような驚きすら感じた。鳥打ち帽が、あの事件を象徴していたことに初めて気が付いた。
 私ですら、驚いたのである。この事件をなんらかの形で忘れまいと思っていた人たちにとって、鳥打ち帽の姿は、ひとつの強烈な意志として感じたのかもしれない。

 今、街を歩く人のなかで、鳥打ち帽を見かけることは、まずない。でも、三十年前のあの頃、当時四十代だった私の父が友人たちと連れだって、夜の街にくり出す時は、たいてい鳥打ち帽をかぶっていたのを覚えている。会社の慰安旅行らしき記念写真も、みんな、まるでそろえたかのような鳥打ち帽姿である。
 清水では男のおしゃれとして鳥打ち帽がはやっていたのだろう。もっとも、呼び方は、ハンティング帽がなまったハンチン帽だった。
 そのころ、清水の景気がよかった。市の人口がピークを迎えたのも、この頃だった。事件から、三十一年たって、町は変わった。構造不況の町と呼ばれたのも、ずいぶん前の話だ。現場となったキャバレーは、その巨大さゆえに閉店し、今もシャッターを閉じたままだ。
 いろいろなことが変わった。でも、事件を生み出した差別や偏見は、三十一年たってどれだけ変わったといえるのだろうか。表面上は見えにくくなっているだけではないのか。三十一年たって、変わったこともあるが、変わっていないものもある。そんなことを、鳥打ち帽が訴えているような気がしてならない。
 


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