990905


8・6のヒロシマを訪ねて

脈打つ平和への願いに感激

教育労働者  大垣 正和



 この夏、旅行の途中で八月六日の広島平和集会に参加した。

 日の丸・君が代が国会で法制化されようとしている時でもあり、また、日本の進路・平和についての情勢が大きく変化していることを肌で感じられたからである。「ヒロシマ」で何かを見ることができるのではないかと思ったのである。

 前日の夜、十一時に広島駅に着き、雨の中を歩いて平和公園に向かった。

 広島はこれで二度目の訪問である。十数年前には似島(にのしま)の小学校の校庭から被爆者の遺骨が掘り出されたとの報道を聞き、島に渡った。校庭の片隅に建てられたばかりの卒塔婆(そとば)が、今もはっきり目に残っている。

 平和公園に着いたときは、すでに時計は六日の〇時を回っていた。ライトに照らされた原爆ドームを通って平和公園に入ると、雨の中、次々とお参りに来る人びとの群が列をつくっていた。マスコミも動き始めている。深夜にもかかわらず、公園内のあちこちには数多くの人びとが、翌朝の集会を待って一夜を過ごしている。

 「ヒロシマを伝えるのに、まだ納得できる写真が撮れない」と、仕事を休んで五年間連続して広島を訪ねているアマチュアカメラマン。病気で会社を辞めたが「ヒロシマにひかれる」と言って訪ね続けている若い労働者。反核のための研究を続けている米国の若い研究者。そして多くの学生たちに会うことができた。神奈川県から来たという青年とは、式典会場の正面に座って、夜が明けるまで平和について語り合った。

 翌朝、平和集会が始まると、七、八十歳のお年寄りが、後方の日除けテントではなく、炎天下の前の席で手を合わせている。隣の席からは「弟が暁部隊に入ってこの近くで亡くなりました」「家族四人が全員被爆しましたが、今日孫が平和の歌を歌いますよ」と、自然と話しかけられる。資料館も、動きがとれないほど子どもたちでいっぱいであった。雨の降りしきる中、太田川の灯ろう流しにも参列できた。

 平和公園を中心に、さまざまな取り組みがなされ、私は、広島は八月六日を決して忘れることはないと感じた。

 新ガイドラインなど、戦争への道が一方で準備されつつあり、朝鮮に対する民族排外主義が頭をもたげつつあるようにみえるが、人びとの底流には今も反戦の思いが脈打っていることを感じた一日であった。

 来年の二〇〇〇年八月六日のヒロシマにも、ぜひ行ってみたいと思ったところである。


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