990825


連載『三池と私』は楽しみ

「眠れる豚」はいつか目覚める

遠藤 和子


 「ああ、そうだったんだ」と思いながら「三池闘争と私」の記事を読んでいる。私が学生の時に聞いた「三池」は、常に闘いの中にあった。だから三池労組が「眠れる豚」と呼ばれていた時代があり、その組合があの偉大な闘争を闘ったことにとても興味をもった。

 三池闘争から四十年たつが、今、私たち労働者が置かれている現状は厳しいものがある。度重なるリストラ、男性の平均寿命さえも引き下げるほどの不況による自殺者の急増。

 私の職場でも、条件を下げて、十年前の給料で募集してもたくさんの人たちがやってくる。大企業をクビになった人、大学を卒業しても仕事がない人、年齢制限にひっかかった人…。「仕事があるだけでもいい」と言う人もいる。組合のある郵便局や学校で働く人たちに聞いても「今の組合は何もしない。労働者の権利と要求を闘いとってくれるはずなのに」と言う。現場では、あきらめや悲鳴に近い嘆きが渦巻いている。

 この半年の間に二つの集会をやった。参加を呼びかけた人たちの反応は「今の世の中変よね。何とかしなければ」と一致するのだが、それ以上ではない。もちろん、やり方にも問題があったと思うが…私の頭の中は行き詰まってしまった。

   ◆  ◆

 そんなとき、労働新聞に「三池と私」の記事を見つけ、大いに励まされている。炭鉱での労働は、私の想像をはるかに超える過酷さだった。また労務管理の厳しさはきわまっている。大闘争の十年前の指名解雇や希望退職の時には組合は何もせず、認めている。そんな組合が日本中を大きく揺るがす闘争をするのだ。

 また、この記事を寄せている藤沢孝雄さんは三池闘争の第一線で闘ってきた人であるが、働き始めた当初は職制をめざして一生懸命働き、会社の推薦で幹部養成学校に通った人なのである。

 時代は変化していく。その中で、人も、組合も変わっていくのである。今の組合が豚なのか虎なのか、はたまたライオンなのか知らないが、ただ眠っているのである。眠っているのなら起きるだろう、起きなければ起こせばいいのだ。なぜ労働運動は盛り上がらないのか、不満があるならなぜ声を上げないのかと、そんな会話についつい自分も同じ気分になってしまいがちになる。

 だが、一人でも多くの人と手を結び、前を向いてがんばっていこうという気持ちを新たにしてくれる連載である。

 労働新聞が届くのを楽しみにしている。


Copyright(C) The Workers' Press 1996,1997,1998,1999