980915


イチローの清掃工場だより

見学者ご一行様!

近江 一郎


 四月から夏休みにかけて、市の全小学校の五年生が順次、清掃工場を見学に来る。

 オペレーター室で説明をしながら、一様にモニターを見る。テレビ、冷蔵庫が一瞬にして破砕機の中で壊れるのを見て歓声をあげている。そして「もったいない」と言ってくれる。

 他にPTA、地域婦人会、近くの市の市会議員、エトセトラ。東北、北海道からわざわざこの町の清掃施設まで見学に来る地方議員もいる。彼らの魂胆は丸見えで、ある議員団体などは見学中の説明も上の空で、予定の見学もそこそこに途中で切り上げ、夜の宴会へと走っていった。

 見学者の中での大物は、将来日本を背負う国家公務員一級で採用されたキャリアのタマゴ。新人研修の名目で、昨年から始まった現場体験の一環として、この清掃工場に三人の男がやってきた。

 さすがにエリートである。質問内容もまずまずで「この処理されたものは、どのように最終処分されるのか?」と聞いてきた。

 こちらはおもむろに「飛行場建設用地、新たな用地を必要とされている海岸線などに埋め立て用として処理されている」と答える。

 彼らの初々しい受け答えとまじめな姿勢を見ていると、これが近い将来「○○シャブシャブ」などで接待を受ける青年とは思えないのだが…。しかし彼らとて他の見学者同様、現場労働者への労働内容、条件などへの質問は一切聞かなかった。

 このように「清掃工場」への見学は一過性のブームであり、トレンディーなのだ。トレンディーといえば、行政における「清掃局」という名称も「環境局」に代わり、「清掃工場」も「クリーンセンター」と、なんとなく耳ざわりがよい。カタカナ文字でことをすり替えているだけで、労働内容の劣悪さの実態は「清掃工場」のままである。余談だが私は鎌田慧氏の「自動車工場」同様、「清掃工場」という言葉を使っていきたい。

 先日、NHKで「産業廃棄物処理工場」という番組が放送された。処理工場設置現場における、行政、業者、地域住民の三者三様の立場で議論していたが、話はまったくかみ合わない。

 これが日本の現実(利用者=国民と製造者=財界の対立)である。この縮図として、新たな「清掃工場、産業廃棄物処理工場」の設置問題に直面したとき、双方のエゴが激烈にぶつかり合う。

 この放送にしても清掃工場の仲間は誰一人として見ようとしない。なぜならば「自分たちのことは、いつも切り捨てられているから」と言い切る。確かに「三者」の立場は伝えられていたが、「そこで働く者の声は一言も反映されていなかった」のは事実である。

 続けて彼らは言う。「俺たちはいつも住民の最終処理をしているが、彼らは俺たちをさげすみ、切り捨ててきている。しかし俺たちが働かなければ、困るのは彼ら市民であり、国民であるのに」と。はき捨てる言葉は重い。

 そんな働く仲間と暑い夏の夜、仕事を終えいつも行く焼き肉屋でビールを飲みながら鋭気を養う。「おばちゃん、この店で一番うまいホルモンちょうだい」と言うと、「今一番おいしいのは『環境ホルモン』や」と言われて、一同大笑い。さぁ、明日もがんばるぞ。


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