980905


やっぱ好きやねん

暑かった中国江南の旅

ひまなぼんぺい


 八月の中旬、南京、無錫、蘇州、紹興、杭州、上海と、連日四十度近い猛暑のなか、慌ただしい旅をした。

 上海空港に着くと、そのままバスで南京へ直行した。三百六十キロの道のりを制限時速百二十キロの高速道路で約三時間。上海市街を抜けると、南京の城内に入るまでは水田の緑豊かな江南の穀倉地帯が続く。

 長江の中流域は洪水で、すでに大変な状況になっていたようだが、このあたりへの影響はまだ見られなかった。

 南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)は、九二年に初めて訪れたとき、屋外のレリーフや彫刻を制作している最中だった。今年の二月に行くと、九七年十二月の大虐殺六十周年の記念行事を経て整備され、「ラーベの日記」(邦訳『南京の真実』)を書いたジョン・ラーベに関する資料の展示館も敷地の一角に設けられていた。

 今回は、朱成山館長と幸存者・倪翠萍さんのお話を聞いた後で見学した。

 ラーベ資料展示館のすぐ前、そこは大虐殺の犠牲者の遺骨を象徴するという白い小石が敷き詰められた大きな広場になっているのだが、一部にテントが張られ、犠牲者の遺骨を掘り起こす作業が進められていた。このテントは厳しい日差しを遮り、つくる影が犠牲者をやわらかく包み込んでいるように見えた。昼休みだったせいか、作業をしている人はいなかったが、彼らの気持ちを思った。

 夜、夫子廟にタクシーで出かけた。後ろに二人が座り、僕は助手席に乗った。タクシー強盗の危険があるので、この席には子供か女性しか乗せてはいけないことになっている。そのようなことを書いたパネルが席の前に張ってあるのだ。

 若い、まだ二十代と思える運転手だった。問われるままに、日本の東京から来たこと、日中平和友好条約締結二十周年を機に南京大虐殺記念館を訪れたことなどを話した。

 「どう思ったか?」と聞かれて、

 「日中友好運動に二十年以上携わり、いろいろな人と南京に来た。大虐殺記念館は三度目だ。思うのは、日本を二度と他国に侵略しない国にしなければならないということで、その最も確かな保証は、日本を革命することだ。それが東洋鬼を親にもつ僕たちの世代の任務だと考えている」

 と答えた。

 夫子廟の入り口に車を止めて、彼は脇の僕をのぞき込むようにしてこう言った。

 「そうか、そうだよ。正直に言うと、中国人民は日本が本当にそうなることを心から願っているんだ。口に出してはあまり言わないけれど」

 中国を旅して、いつも印象に残るのは、ごくふつうの人の口から発せられる言葉だ。

 以前、この欄に書いたことがあるが、定年退職して西寧で屋台を開いている松花江(ここも現在、洪水に襲われている)出身のおじいさんが言った、「私の村にも関東軍が入ってきて村人は周辺に追いやられ、彼らが真ん中に居座った。君たちはその関東軍の子孫なんだから、いってみればわれわれは同郷人だ。なにも遠慮することはない」という言葉。

 今回の若いタクシー運転手の言葉も、中国人民の多数の思いを背負って発言されているようで、述語をきっぱりと言い切れなくなって久しい日本人との違いを考えさせられた。


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