980905


ラーメンの屋台引いて

がんばってるからさ

東京 外崎 徹


 労働新聞八月二十五日号の「通信」に、経営を苦にして二人の友人が自殺したという記事が出ていました。私の周辺にも、戦後最悪といわれる不況の影響を受け、生活に破たんをきたす友人が何人か出ています。

 そのうちの一人H君は、二十数年前、私が大手の孫請けのごく小さな電気工事会社で働いていたときの同僚で、寮代わりの安アパートにいっしょに住んだこともあります。彼はヒッピーが現れるずっと以前からの新宿の住人で、ちょっとした有名人でした。モダンジャズと外国映画にやたら詳しく、私の好みは彼の影響をかなり受けています。

 その彼は、十年くらい前、五十歳近くなってから奥さんといっしょに新宿・歌舞伎町の路上で手作りのアクセサリーを売る仕事を始めました。当初は、けっこう売り上げもあって、ぜいたくしなければ十分暮らしていけるようで、ヤクザとのやりとり以外に束縛されることのない、この気楽な仕事が自慢のようでもありました。

 しかし、しだいに景気が悪くなり、いくら酔客といえど財布のひもは固くなり、売り上げは落ちるいっぽうという状況が続きます。たまに新宿に出ると彼の店に顔を出すのですが、気の強い奥さんを見かけなくなりました。

 「具合悪くしちゃってさ。動けねえんだよ、神経痛がひどくなっちゃって」

 そうこうするうち、彼の前歯が三本抜けてしまい、ずいぶんやせてきました。

 夜の十一時ごろから始発までの路上の仕事は、夏場はまだしも、冬の厳しさは尋常ではありません。こんな仕事を十年もやって、体をぼろぼろにしたのでしょう。そのうち、彼の姿が新宿から消えました。

 彼を見なくなって半年後、電話がありました。

 「ちょっと金貸してくれないか。どうにもならねえんだよ。五千円で助かるんだけど……」

 彼は自業自得だと感じているのか、これまでにない卑屈な表情を見せました。よわったなと思いながらも、五千円じゃどうにもならないだろうと、多めにお金を貸しました。

 そんなことが二カ月おきくらいに二、三度ありましたが、「おまえが悪いんじゃないんだ。断固闘えよ」とも言えず、「がんばれよな」としか言えない自分が情けなくもありました。

 しばらく音信が途絶え、どうしたかな、まさか死んじゃいないだろうな、と思っていたころ、たまたま徹夜で仕事をしていた朝五時過ぎ、電話が鳴りました。

彼からでした。数年ぶりに聞く明るい声でした。

 「十日間の講習を受けて、今、参宮橋の近くでラーメンの屋台を引いてるから、食べにきてくれよ。さんざん世話になったから、おまえには知らせとこうと思って。がんばるからさ」

 ほっとしました。しかし彼に、だれとどう闘えと言えばいいのか、私の抱える問題はちっとも解決していないのです。


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