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モノ作り支える中小零細

現場切り捨ては自殺行為

「グローバルスタンダード」は 米国の市場戦略

澤野 由和


 日本はグローバルスタンダードから遅れている、孤立しているということをいう人がいるが、果たしてそうだろうか。

 たしかに、金融の世界は、ボーダーレス化が徹底的に進んでいて、ディーリングルームのコンピューターの中で、世界中の金融資産が国境を越えて瞬時に動いている。

 現在、貿易決済で動くお金の百倍くらいのお金が、投資などモノの移動を前提としないお金として、利益を求めて世界中をさまよい歩いている。

 同じようにボーダーレスに動いているのは情報である。インターネットなどを通して、世界中の情報・知識がボーダーレスに動いている。

 このように、カネと情報はボーダーレス化している。ところが、ボーダー(国境)を越えてなかなか自由に動けない世界もある。たとえば、人間や「モノづくりのシステム」となると、これはボーダーを越えて動きにくい。

 そういう状況で、現在大きな問題なのが、カネや情報のグローバリゼーションのスピードと、モノづくりのグローバリゼーションのスピードとのあいだに非常に大きなギャップがでてきたことだ。

 三年前阪神大震災が起こった後、円が一ドル八〇円くらいだったが、いま一ドル一三五円を超えている。つまり、三年間で円の価値が六〇%程度動いた。

 これをメーカーの立場で考えると、海外から八十円で仕入れていた原料が三年間で百三十五円になってしまったということだ。メーカーがコストを一%下げるたびに、労働者いじめの合理化が生産現場で吹き荒れる。この矛盾が、グローバルスタンダードを巡る背景にある。

 こういう状況に対処するためには、日本のメーカーは規模と場所をフレキシブル(柔軟)に変化させることによって、この事態に対処している。しかし、これはどうみても本質的ではない。本質的な対応としては「どんなに時代が変わろうとも自分の商品を買ってもらえる独自性をもつこと」だろう。

 一般的には、グローバルスタンダードをつくった会社や国は、市場戦略で優位にたつ。だから、グローバルスタンダードを先に築いた国は、遅れた国に対して、それに従うことを強要する。現在の米国と日本の構図がまさにそうだ。

 しかし、グローバルスタンダードというかけ声の下、長年培ってきた知恵や個性をつぶすことは、それこそ、グローバルスタンダードの嵐の中で自ら藻屑(もくず)と化す自殺行為だ。「ものづくりのシステム」の個性や知恵が本当に問われているのが現代なのだ。

 おおざっぱにいえば、米国のメーカーを見ると、数人の優秀な技術者がいて、あとはオペレーターがいればいいという開発体制である。ところが日本のメーカーが作り出す革新的な製品は、下請けを含めたいろんなジャンルの現場の労働者がチームを組んで一気に開発に向かって走るという、チームプレーの結果生まれている。

 つまり、日本企業の製品や事業に宿る知恵や技術は、そういう現場の人たちが築いてきたといえる。

 逆にいえば、突出したコアテクノロジーが一つあり、それをいかにもグローバルスタンダードだとばかり世界中に強制しているのが米国であり、何千何万というごく当たり前の機能と技術を使って、現場の普通の人の集まりが創意工夫することによって、欧米ではまねのできない個性的なシステムを生んできたのが日本だった。

 そうした現場の知恵をないがしろにして、むやみに「グローバルスタンダードの時代だから」と理由にならない理屈で、現場を切り捨てる企業に将来はない。グローバルスタンダード時代だからこそ、現場の知恵と創意工夫が世界性をもつ時代になったし、それを支えてきたのが中小零細企業だったのだ。


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