980625


映画「プライド」を見て

戦後の不幸の原点を思う

沢木 正彦


 「タイタニック」が記録的な興行成績だったという。金を湯水のように使うハリウッド映画に比べると邦画はいまいち人気がないようだ。そうした状況にある中で、悪評高いとでもいおうか、世間を騒がせている映画が今上映中である。

 東映の「プライド―運命の瞬間」がそれである。この映画は上映前から映画復興会議や東映労組などから「日本の侵略戦争の責任を否定し、戦犯を免罪するもの」として厳しく糾弾され、上映の中止が求められた。

 中国や朝鮮・韓国など日本の侵略・植民地支配を受けた国々からも弾劾を受けている。私もそうした「前評判」につられて劇場に足を運んでみた。

 たしかにこの映画は、アジア・太平洋戦争を「自衛戦争」「アジア解放戦争」ととらえる観点からストーリーが構成されており、日中戦争を「居留民保護のための自衛行動」、南京大虐殺を「ねつ造」であると強弁するなど歴史認識を歪曲(わいきょく)し、A級戦犯東条英機らを擁護することで日本の戦争責任を否定・免罪することを目的に制作された政治的な映画であることは間違いなかった。

 この映画は観客、とくに若い層に誤った歴史認識をうえつけることを意図しているのではないかと強く感じた。

 しかしスクリーンを見ながら、また別の側面にも気がついた。歴史を歪曲するこの手の映画は「大日本帝国」「連合艦隊」など今までも上映され物議をかもしだしてきたが、この「プライド」は従来の同様の映画とは少々おもむきを異にする面があるように感じたのである。

 「プライド」は東条英機を主人公に東京裁判を描いた作品であるが、裁判の過程を描く中で米国の対日支配の意図に触れられていたのである。

 東京裁判のために米国から派遣されてきた主席検察官キーナンは、裁判の正当性に異議をはさむパール判事(映画でのパール判事の描き方も日本免罪論を主張したかのように歪曲しているが…)や進行の合法性に疑問を呈するウエッブ裁判長をどうかつしながら東京裁判をアメリカの意図通りに進めようと画策する。

 アメリカの意図とは何か、スクリーンの中でキーナンは「アメリカの利益にそうように日本をつくりかえる」ことだと宣言する。

 映画の中で、戦犯として起訴された右翼思想家の大川周明が「この裁判は茶番だ」と叫ぶシーンが出てくる。たしかに東京裁判は茶番劇であると、私も思う。米国の対日支配を合法化するための茶番劇である。

 その最大の点は、天皇の戦犯免訴である。米国は天皇制を戦後の日本支配に利用するため、ソ連をはじめ連合国の強い反対をおしきって天皇を免訴した。

 この映画でも米国が、東条に「戦争は天皇の意志に反して行った」と言わせるよう圧力をかけるシーンが登場する。

 東条は苦悩しながらも、結局は天皇免訴のためにそれを受け入れる(もちろんこの映画ではこれを天皇に対する東条の忠義心として形象しているので東京裁判の茶番性など浮かび上がらせられるわけでもないのだが…)。

 「プライド」は東京裁判五十年を記念して制作されたそうである。戦後の日本の歴史を振り返ってみた時、米国の戦略的意図はみごとに実現されたといえるのではないだろうか。

 日本が侵略戦争の敗北という厳しい経験をしっかり総括して、真の自主独立国として隣国アジアと共生する道をとれず、米国に従属し再度アジアに敵対したことに、戦後日本の不幸の原点があるように思う。

 この映画が米国の日本支配の意図に触れたのは事実であるが、この映画の制作者には戦後体制の構造は暴露できないだろう。彼らこそ日米安保体制の擁護者であり、今までそれを支えてきた人びとだからである。しかしそういう人びとですら、対米従属の問題に触れざるを得ない状況にきているというのが現実であろう。

 そういえば最近、親米保守やサブカルチャー系の文化人がマスコミでさかんに反米、反グローバリズムの主張をする一方で「愛国心」「独立」を言っているのが目につくようになってきた。これは、国民の中にじわじわと浸透する「嫌米」感情(反米未満というところか)を反映しているのではないかと思う。

 規制緩和要求をはじめとする米国の対日圧力は日ごとに強まっている。国民各層の怒りは不況が長引き生活が苦しくなるごとに強くなり、その怒りが橋本政権と、その背後にいる米国に向けられるようになってきている。

 こうした時期こそ、われわれ労働者、民衆の側から、正しい意味の「独立」や「アジアと共生する日本の進路」を堂々と提起することが重要ではないか…そんな気持ちを強くしながら劇場を後にした。


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